キリア&ドーム銘板

第八話 冥界の深き底で(2)

 カロンの話に依ると、生の門の位置はカロンでさえも知らないそうだ。あるいは話すのを禁じられているのかも知れない。だから俺は自分でそれを探し出さなくていけない。
 人間が門を見つけるのでは無い。門が人間を見つけるのだと、カロンは言った。
 冥界は現世の運命の流れの調整を行う。現世で処理しきれない様々な因果を冥界は処理するのだとも。そうやって全ての重さを捨てた者のみが、生の門を見つける。それが掟だと。
 いくらシナリオ摩擦効果から逃れて、頭が冴えているとしても、さすがにこれは俺にはわからなかった。

 考えるよりは行動するのが簡単で手っ取り早い。それが戦士ってものだ。
 俺はお手軽にやることにした。つまり目標を作って後は何も考えずにまっすぐに進むのだ。
 薄暗い天蓋の下にはこれも暗い地平が広がっている。カロンの館の一番高い塔から眺めた時に、その地平線に一箇所だけ不自然に飛び出た所を見つけておいたのだ。
 奇妙にも時々身震いする地平線の上に、わざとらしく見えるように作られたでっぱり。
 絶望の石版。カロンはそう説明した。なんでも地獄の神が天界から追い落された時に、世界に対する恐るべき呪祖の数々を書き記したものらしい。
 その石版に書かれた言葉は只の言葉では無い。この冥界そのものを構成する力だそうだ。その一部でも己の魂を焼かれることなく現世に持って帰れたならば、恐らくは最強の魔術師となるだろうとカロンは断言した。
 ・・・キリアが聞いたらよだれを垂らすこと請け合いの話だ。
「キリアならば、その通り、絶望の石版に出かけた事があるよ。
 目を血走らせてな。絶対に根源の神々に関係があるとか叫びながら。
 まあ、結果は知らんが、地上で大騒ぎが起こったとも聞かんから失敗したんだろう」
 カロンは笑いながらそう言っていた。
 俺もキリアがそこまで強力な呪文を使ったとは聞いたことが無い。
 まあしかし、キリアの狂いっぷりは冥界でも有名なのか。俺は呆れた。
「かって実際に、あの石版の言葉を地上に持って帰った者がいる」カロンは続けた。
「名はオーディンと言う。知っているな?
 オーディンがここに来た当時は、まだ神では無く只の魔術師だった。奴は一端、自分を仮死状態に置くことで冥界を訪れ、石版の文字を自分の身体に直接刻み込んだ。そうやって地上に言葉を持ち帰ったのだ。これなら忘れることは無いからな」
 ここでカロンは笑った。目は笑っていなかったが。
 それほど、石版の示す力の誘惑は大きいのだろう。俺には旨い酒の方がいいが。
「真似するなよ。ドーム。
 オーディンは蘇生した後も1年の間、生死の境を迷ったのだ。奴が生き延びることができたのはその異常なまでの力に対する渇望ゆえだ。だが生き延びたものの奴は狂った。その結果が主神であるチュールを追い落とし自分が主神となることだったのだ。そして最後には自分自身と共に世界を滅ぼすという未来を描き、実行しようとした。
 一度、発すれば街一つをも瞬時に焼き尽くす『絶望の言葉』。それを身体に刻めばどうなるかは判るだろう。冥界は決して気前の良い所では無い」
 ここまで言うと、ちらりとカロンは酒壷を見た。
「この酒壷や食物は実体があるように見えても、全て幻影だ。
 冥界の食物は身体を強めることは無いし、酒は酔いを引き起こすことは無い。
 冥界の炎は・・・」
 カロンの話は尽きることは無かった。
 幻影でも良い。俺は出立までの間、酒を飲み続けた。


 そういうわけで俺は一人、絶望の石板目掛けて暗い荒野を歩いていた。
 すでにカロンの館は見えないほど、俺は距離を稼いでいた。前方に微かに絶望の石版のシルエットが見えていたが、ちっとも大きくなったようには見えない。それほど遠くにあるようには思えなかったのだが、冥界では距離というものが何か少し違うものなのかもしれない。
 その暗い荒野の中に小さな炎がちらちらと目に止まる。
 あまり炎には因われるなよ、とカロンは俺に忠告してくれていた。俺は自分の進路に現れた炎のみに注意を向けることに決めていた。
 炎。すなわち・・焚火である。カロンの説明に依ると。
 俺の前に一つの炎が現れた。いきなりと言っても良い。つまり、この焚火の主は俺を待っていたということだ。俺が逃げられない様に今まで炎を俺の目から隠していたというわけだ。
 俺はためらわずに炎に近付いた。びくびくするのは性に合わない。
 焚火の傍で待つ相手と話すことは、冥界からの脱出には非常に重要とも聞いていた。まったく相手にしなくても駄目、し過ぎても駄目ということだ。
 焚火の主は・・・見なれた顔・・ボーンブラストだ!
 やはり殺されていたか、ボーン!
 俺は無言でボーンブラストの向いに座った。奴はうつむいたままで俺を認めた。ボーンの発した声は、暗いこの冥界の大地にふさわしいものだった。
「久しぶりだな。ドーム」
「会えると思っていたぜ。ボーン。元気か、と尋ねるのは変だな」
 同じ亡者同士、俺はひるまなかった。
「そうでも無いさ。見ろ」
 ボーンは自分の両手を差し出した。奇麗な傷一つ無い手。
 こいつの手がこんなにすらりとしていたとは今の今まで知らなかった。
「冥界まではさすがの呪いの手袋も付いて来ることは無いんだな。
 蘇生すれば相も変わらず、あの手袋の苦痛と一緒だろうけど。
 このままの方が良いのかもな」
 俺は無言でこの言葉を聞いていた。
 すでにギルガメシュの酒場は冒険者の定員である二十名で一杯になっている。つまりボーンが生き返る余地は無い。
 きっと月の民はボーンを処刑した後、すぐにその死体を破壊したのだろう。
 急がなくては、俺も生き返るチャンスを失うだろう。
 急がなくては。
「優しいんだな。ドーム」ボーンの声が俺の物思いを断ち切った。
「俺がもう生き返れないだろうことは、薄々俺にも判っているのさ。
 月の民が俺を生き返らせるとしたら、それは拷問のためだろうしな。
 実はもう何度も生き返らされては月の民に私刑にされているんだ。
 最近、俺が生き返らされ無いのは、きっと蘇生呪文が失敗したということだろう。なにより肝心の俺が生き返ろうとしていないからな。
 まあ、仮に月の民が俺を解放したとしても、お前達を裏切った以上、ギルガメッシュの酒場に帰れるわけもない。俺はもうどこにも行きようが無いのさ」
「ボーンブラスト」俺は言った。
「お前に謝らなければならん。俺の心無い態度がお前を傷つけ、あんな状況に追い込んだとしたら。ボーン。俺は謝らなければならん」
「よしてくれ」ボーンは遮った。
「もはや、どうでも良いことだ。それに裏切ったのは、俺だ。もう、いいんだ。行きな、ドーム。時間を失うな」
 俺はボーンの焚き火、奴の執念、燃える思いを越えると歩き始めた。
 背後から声が聞こえた。
「最後に一つ聞いておきたいんだが。ドーム。会計士を雇う気はないかね?」
 会計士? そりゃいったい何だ?
「いいんだ、ドーム。ただの冗談だ」

 この平原では怨みや愛を持った者は、自分の思いを燃やしながら相手を待つ。それがすなわち焚火なのだ。
 ボーンが燃やしていたのは、俺やキリアへの怨みの炎だろうか?
「ドーム」ボーンが背後からまた呼びかけた。俺は振り向いた。
 確かに俺のすぐ背後にあるはずのボーンの焚火は消えていて、ボーンの姿も無かった。
「覚えておけ。ドーム」ボーンの声だけが俺の耳に届いた。「冥界で背後を振り返った者は、そこで得た物を失うのだ」

 後は荒野を吹き渡る風の音だけ・・・


 次に俺の出会った焚火は、恐ろしく巨大なものだった。これは一体・・・

 炎の前に座っていたのは、明らかに戦士と判る良く発達した筋肉を持った大男だった。俺はその顔を良く見たが、誰だか思い出せなかった。
 大きな発達した顎が男の力を示している。力を出すたびに歯を食いしばる結果、戦士の顎は大きく発達する。女性の剣士があれほど男っぽく見えるのはそういう理由がある。
 この男は、きっと山をも動かすほどの怪力を発するだろう。
 男が右手を上げた。無惨にも男の右の手首から先は切株の様に断ち切られている。利き腕の喪失。戦士としては致命的な傷だ。
 だが、男の瞳の中にある何か強烈で温かなきらめきを俺は見て取った。
「あなたは誰だ?」俺は尋ねて見た。
 何か、この男にひどく親しみを覚える。
 何かとても懐かしい様な。
「私はお前を良く知っているぞ。ドームよ」男は言った。深い力を感じさせる声。
 俺は男の正体を直感した。これほどの声を持つ存在は・・神に間違いない。
「私はチュール。戦神チュールだ」
 チュール?
 何度も聞いた名だ。オーディン神と同じ世界の神。
 俺は身構えた。
 オーディン神に復讐を頼まれたのだろうか?
 俺を倒せと。
「勘違いするな。ドームよ。私こそが本物の戦の神。戦士の神だ。それゆえに、戦士たるお前に忠告を与えに来た」
 チュールは己の手の無い右腕を差し出した。
「この手をどうして失ったか、知っているか?」
 俺は首を横に振った。
「かって、わしの住んでいた世界にはフェンリルと呼ばれる怪物が存在していた。
 この怪物は世界そのものを食い尽くす力を持っていた。
 そこで神々はフェンリルを繋ぐ魔法の鎖を作り出した。
 判るか? ドームよ。
 フェンリルでさえも切れない究極の鎖。グレイプニル。お前も何度か目にしているはずだぞ。
 そして、これで問題は解決したように見えた。
 たった一つ、誰がフェンリルを繋ぎ止めるか、という問題を残して・・・。
 判るか? ドームよ。
 そこで神々はフェンリルを挑発した。この鎖を切れるか、と。
 魔法の鎖に罠を感じとったフェンリルは、挑戦の際に人質を要求した」
 俺はチュール神の顔を見つめた。そして、その右腕を。
 チュール神は俺に頷いた。
「そうだ。そしてわしは、この右手をフェンリルの口の中へと置いた。
 神々が鎖を解かぬ時には、わしの右手を食いちぎれとな。
 ドーム。これが、わしが右手を失った理由だ」
 チュール神の目が大きく開かれた。
「だが、ドーム。話はそれだけでは無かった。
 罠はフェンリルのみにかけられたのでは無く、わしにもかけられていたのだ。
 ・・・そもそもの発案者のオーディン。あいつはこの結末を予想しておった。
 フェンリルが何を要求するかも。このわしが、それを受けるかどうかも。
 判るか? ドームよ。
 当時あの世界の主神は私であった。
 だが右手を失ったことで、私の力の大部分は失われ、世界の覇権はあ奴、オーディンの物となった。
 すでにあの世界は滅び、わしはここ冥界で、遥か昔に滅びた神として細々と存在している。
 では、ドーム。私はフェンリルに右手を差し出すのを拒むべきであったのか?」
 俺は無言であった。
 俺ならばどうするだろう?
 利き腕を失えば・・戦士の人生は終りだ。失うのは手だけではない。自分の全存在を失うのと等しいのだ。
 完全治療呪文マディも、この種のケガには効き目がない。魔法の契約が関わるせいだ。どうやっても失った手首が再生することはない。
 もし魔法が効くとすれば、そもそもの賭札自体に意味が無くなるからだ。
 だが・・もし、この挑戦を受けなければ・・・例え五体無事であったとしても・・・。
「それで良いと・・俺・・はそう思う」俺はチュール神に答えた。「遣らねばならぬ事から身を引く者はすでに戦士では無い。そう俺は思う」
「その選択でいいのだな? ドーム。
 もしかしたらお前の答えを確かめるために、わしはお前の右手をここで要求するかも知れんぞ」
 俺は自分の右手をチュール神へと差し出した。
「戦士の神であるあなたには俺の選択が判ると思う。
 俺は今、シナリオ摩擦効果が無くなって戦士らしく無いが、それでも、この判断は変わらない」
 チュール神は大きく笑った。なんという豪快で快活な笑いだ。
 これが主神としての地位を追われて、冥界へ住まわざるを得なくなった者の態度なのだろうか?
「それでいいのだ。ドーム。戦士はそうで無くてはならない。
 戦士を決めるのは技では無い。腕を失ってもわしは依然として戦士だ。そして戦士の神でもある。
 戦士を決めるのは武器では無い。剣を持たずともお前は依然として戦士だ。
 戦士を決めるのは、その戦いへの意志と行動だ。
 ドームよ」
 チュール神の顔が厳しくなった。
 まともに俺の目を覗き込む。チュール神の瞳の中に遠く星々が見えた。この冥界には決して輝かないはずの星々が。
「お前にもやがて選択の瞬間が訪れるであろう。
 私がこの右手を賭けた瞬間と同じ様に。
 だが、恐れるな。やるべきことをやれ。戦士は絶望の中に希望を見つける者だ。
 利き腕を失っても私はやはり戦士のままである。
 逃げれば、利き腕の代わりに、己の魂を失うことになっただろう。
 ドームよ。お前は私の言葉を覚えてはいられない。それが冥界の掟だ。だが、お前の戦士としての魂には、私の言葉が刻み込まれる。かってオーディンが自分の身体に言葉を刻んだように」
 チュール神は、ここで一息ついて続けた。
「ドームよ。またいつか。この地で会うかも知れんな。私の言葉を忘れるな。ドーム」
 チュール神は己の残された左手の指を噛むと、俺の右手にそれを押し付けた。血で綴られたルーン文字が俺の右手の上に刻まれた。飛び出た矢のシンボル。チュール神を表すルーン文字。
「神よ」
 俺は自分の右手に刻まれたルーン文字を見つめながら言った。これがいったい何のためなのかは判らないが、何らかの魔法の行為であることだけは理解した。
「ファイサルという男をご存じですか?」
「酒飲み男のファイか」どことなくユーモアをたたえた目でチュール神は答えた。「知っておるも何も、それ、お前の後ろにいるではないか」
 俺は慌てて振り返った。そこには誰もおらず、風だけが荒野に吹き渡っている。顔を戻すと、巨大に燃え盛っていた炎は消え去っていて、チュール神の姿も闇に消えていた。
 後には言葉が一つだけ。
「忘れるな。 ドームよ。お前は戦士なのだ」

 忘れるものか。チュール神。勇気ある戦士の神よ。


 次の焚火はまた普通の人間のものの大きさだ。熱の無い炎の明りの中に浮かび上がった顔は・・・。
「待っていたわ。ドーム。随分長く」スーリは微笑んだ。