キリア&ドーム銘板

第八話 冥界の深き底で(4)

 絶望の石版の周りには無数の亡者が蠢いていた。
 俺は、絶望の石版の頂上を見つめた。何かの輝きが二つ、小さく見える。

 チュール神は言った。戦士は絶望の中に希望を見つけると・・
 オーディン神は致命傷となり兼ねない石版の言葉を自分の身体に刻み込んだ。
 とすれば出口は石版の近くにあったに違い無い。そうで無ければ、幾ら距離を縮められても、現世に戻る余裕は無かったはずだ。
 俺は確信した。
 生の門は絶望の石版の上にあると・・・。あの石板の頂上の輝きが、生の門だ。

 俺は背後のスーリの手を握ると、亡者の群の中に飛び込んだ。
 無数の亡者はどれも火傷を身体に負っているのが、暗い中でもどういうわけかはっきりと見て取れた。それが俺の放った炎によって焼き殺された月の民たちであることに気付いて俺はぞっとした。
「ドーム! この人たち。私と同じ月の民よ!」スーリが悲鳴を上げた。
 その声を聞き付けて、周りの亡者たちが俺に気付いた。
 中の何人かが俺を指さして何か叫ぶ。それを聞いて、他の亡者たちがどっと俺へと殺到して来た。
 掴みかかる手を跳ね除け、俺はスーリの手を引いてひたすら石版の頂上めがけて登った。
 山と見紛う巨大な石版の周りのこの瓦礫は長い間に崩れた石版からの破片らしい。それも砕け落ちた当時のままらしい鋭い破片だ。
 俺はスーリの腕を引き寄せると、背中へとかつぎ上げた。
 裸足の足が破片で切れて血を流すのが感じとれたが、俺は速度を緩めなかった。
 前に立ちはだかる亡者を、俺は跳ね飛ばして進んだ。奇妙に亡者は弱く、俺の腕に押されて砕け散る奴もいた。どうやら完全に死んだわけではない俺の方が存在としての根本が強いらしい。
 背中のスーリがこれもひどく軽く思えるのが、俺は気になった。

 だが、俺は振り返らなかった。


 月影は光る文字の揺らめく、不思議な岩山に到達した。
 ここに来るまでに、多くの時間を費やした。月影もやはり、冥界の掟に半分埋まっていたのだ。冥界は不法な侵入者に注意している。特にこの石版の周りでは。
 月影は、その岩山の中を通る登り道に何かの光る足跡を見付けた。
 それと岩山へと近付く巨大な影を。


 やがて俺は石版の頂上へと続く道のりの半分をこなした。
 亡者の群はそれ以上、俺達を追っては来なかった。
 右手に見える奇妙な岩肌の上に、刻まれている巨大な文字の数々が、中で石炭が燃えているかのように、ときたま赤く揺らめいた。
 世界原初の呪いの言葉。絶望の詩。その一部を声に出して読んだだけで破滅が出現する。
 あいにく、俺にはその文字が読めなかったが。
「ドーム。見て!」
 スーリが俺の顔の横で遠くを指差した。
 この高さから見える暗い地平線の平坦なシルエットの中に、何か動くものが見える。
 ・・・それは人型をしていた。
 恐ろしく巨大だ。この距離でこれほどの大きさに見えるとは。しばらく見つめて、それが石版、つまりは俺の方へと向っていると確信した。
「生の門の守護者よ。聞いたことがあるわ。ドーム。急いで。あれに捕まったらおしまいよ」
 スーリが断言した。
 またもや妨害だ。冥界はよっぽど死者を手放すのが厭と見える。なるほど狂気の神ニルギドが喜んで賭けをするわけだ。
 俺は全力で石版の頂上に急いだ。
 目の隅に捉えられる巨人のシルエットはだんだん大きくなって来る。
 間に合うだろうか?
 遂に残りの工程をこなして、俺は石版の頂上に立った。
 足から流れ出た血が辺りに飛び散る。俺の血は奇妙に光を放っていた。
 頂上には門が二つ、いずれも内部から光を溢れさせてそこに聳えていた。
 普通ならば亡者はここまで登れない。生き返る望みの無い者は・・・なるほど。
 俺は迷った。
 きっと一方は死の門だ。両方が死の門と言う可能性も考えられるが、そこまでは疑うまい。
 どのみち俺たちはどちらかの門に入らねばならない。
 山の巨人はついそこまで来ている。石版を降りて逃げる暇は無い。
 何度見ても、どちらの石版もそっくり同じに見えた。
「こっちよ。ドーム。こっちが生の門よ」
 スーリが指差した。
「どうして判る?」俺はスーリの示した門を見つめた。やっぱり違いは見つからない。
「あたしにはモルゴドの加護があるの。門を見分けることができるのよ。
 急いで。ドーム!
 守護者はそこまで来ているわ」
 俺の立っている地面がわずかに揺れた。巨人が石版を登り始めたのだ。
 俺はスーリの手を握ったまま、その門へと急いだ。
【・・・待て!・・・】
 恐ろしく強烈な意志を込めた声が轟いた。守護者の声だろう。俺の体から力が抜ける。
 俺は萎えそうになる足を叱って、門へと飛び込もうとした。
「ドーム!」雷鳴のように轟く、だが懐かしいキリアの声が俺の耳に届いた。それと同時にもっと懐かしいあの声が重なって聞こえた。それは、こう呼びかけていた。
 ・・ぼうず・・
「お師匠! キリア!」俺は安堵した余りに、遂に振り向いてしまった。
 しまった!
 俺は振り向いてしまったのだ。
 そこにはキリアの姿は無かった。
 背後に迫る巨人と、その前で今にも消えかけている何かの影。
 そして・・・スーリの邪悪な笑い顔。

 それは例えようも無く邪悪だった。
 俺の死を確信した顔。
 俺の破滅を喜ぶ顔。
 裏切られたとわかったときの俺の絶望をいままさに味わわんとする悪鬼の顔。

 その瞬間、俺は悟った。
 俺がスーリを愛したのは、月でのスーリの複製には無かった、この邪悪さ。
 僅かな苦みが料理の味を調えるように、スーリの邪悪さがそのままスーリの複雑さの魅力だったのだと。
 モンスター蛾がマハリトの炎の中に己から飛び込むかのように、俺もまた危険を感じさせるスーリの雰囲気に引かれていたのだと、俺はついに理解した。
 俺の心の周りに蜘蛛の糸の様に巻き付いていた愛の邪神モルゴドの力が、一瞬の達観の内に感知できた。
 風が吹いて来た。風はスーリの周りにまとわり付き、俺から引き剥そうとした。
 振り返れば・・・それが冥界の掟だ。ボーンの声が頭に響いて来た。スーリは失われなくてはいけない。永遠に。
「ドーム! 後、少しだったのに! ドーム! 後…」
 風に巻き上げられた石がスーリの手を掴んだ俺の腕に当り、一瞬俺の腕の力が緩んだ。汗で滑べり易くなっていた手が離れ、慌てて延ばしたもう一つの手はスーリの服の袖しか掴めなかった。あっさりと掴んだ袖が破れ、そして。
 強烈な風はついに俺からスーリを奪い去り、永遠の闇が支配する冥界の死の門の中へと運び去った。俺がたったいま踏み込もうとしていたその門の中へ。
 絶望の叫びを上げながら、スーリは俺の目の前から消えた。永久に。完全に。俺の手の中に残ったのは、スーリの衣服の切れ端がひとつ。それだけだった。

 巨人が近付いて来た。

 俺は唇の端を噛み締めると巨人を睨みつけた。決しておたおたと逃げたりはしない。俺は戦士だ。
 この巨人は、門の守護者は、俺からスーリを奪った。
 拳の一つもできることならお見舞したいものだ。
 巨人の姿が見えるようになった。漆黒の髪、漆黒の肌。そして優しい面立ち。なんということだ。俺はこの巨人に見覚えがある。
 カントの寺院の中にはこの神の彫像がある。
「カドルト神よ。あなただったのですか」俺は体から力を抜いた。
「そうだ。ドーム。我が子よ。
 尼僧長マーニーアンはお前の蘇生のためにカドルト呪文により私を呼んだのだ。
 危ない所であったな。ドームよ。冥界の小鬼にたぶらかされたな。
 その門こそが死の門。お前の入るべきはもう一つの門だ」
「あれは小鬼? スーリでは無かったのですか」俺は驚きと共に尋ねた。
「それがお前の質問ならば答えてやろう。先ほどの娘はお前がスーリと呼ぶその女に間違いは無い。ここ冥界では全ての者はその本性を隠すことは出来ない。
 スーリはお前を完全に殺そうとしたのだ。私が来てしまってはもう打つ手は無いからな。
 あの者の時はすでに残ってはいない。スーリは死の門の先で己の運命に出会うことになる。たった一人で」
「一緒に行ってあげても良かったのに」俺はつぶやいた。
 カドルト神は俺のつぶやきを聞き取った。
「馬鹿な事を言うものでは無い。ドーム。
 お前にはまだ果たさねばならぬ仕事がある。
 行かねばならぬ場所がある。
 多くの者が、多くの世界がお前を待っている。
 ここは眠りを選んだ者の場だ。お前の時はまだ尽きていない。
 ドームよ。お前の名は『運命』を表すものだ。
 お前の運命を、さあ、受け入れに行くが良い」
 カドルト神はもう一つの門を示した。

 俺は考えて見た。
 俺に纏わりついていた全ての重荷は消えた。なるほど、冥界は全ての絡みを解く。スーリが死の門を潜った瞬間、彼女は俺に取っての過去へと変わった。どんなに取り戻したくても決して取り戻すことのできない場所へと消えた。俺の愛とともに。
 もはや後悔はしない。それは戦士にはふさわしくないものだから。

 俺の人生は以前と同じく単純な物となったようだ。
 人間。一度は死んで見るのも悪くは無いのかもしれない。
 それから、俺は、生の門へと、光の中へと足を踏み入れた。


 カント寺院の中、強力な蘇生魔法陣の中央で俺は目覚めた。
 冥界で迎えた暗い朝の記憶が一瞬頭の中に浮かんだが、それも眼に溢れる光の中に消散した。
「ドーム。良かった」ほっとキリアが安堵の息をつく。
「き・・キリア。俺は一体」
 隣に描かれた魔法陣の中で横たわっていた月影がうめき声を上げながら起き上がる。
「なんだ、月影。お前も死んだのか?」
 そこまで言って、はっと俺は思い出した。
 そうだ、俺は確か死んだのだ。あの敵の忍者の一撃を受けて。
 俺は自分の首筋に手をやった。忍者にやられた所だ。
「動かないで! ドーム」マーニーアンの叱咤が飛んだ。「そのまま」
 わけもわからずに俺は凍りついた。
 それほど、マーニーアンの口調には有無を言わせぬものがあった。
 マーニーアンは俺に近付くと、俺が首筋にやった手の中に握ったままの布の切れ端を差し示した。
「その布をあの円の中に置いて。早く」
 切迫した口調でマーニーアンは部屋の隅の魔法陣を示した。
 俺は素直に布をその中に置いた。
「下がって」
 マーニーアンはそう言うと、魔法陣に向って呪文を唱えた。魔法陣の周りに青いきらめきが起こり、陽炎の様に魔法力場が魔法陣を閉じる。
 これほど魔法力場の結界線が目にはっきり見えるとは恐ろしいほどの強さの魔法ということだ。
 あの布一枚にマーニーアンは何を警戒しているのだろう?
「今のはもしや?」キリアがマーニーアンに尋ねた。
「そう。冥界布よ。ごくまれに蘇生者はあちらの世界から何かを持って来ることがあるのよ。ドーム。手を出して」
 マーニーアンは俺の手を取った。
 驚いたことに、布を掴んでいた俺の手は青黒く変色していた。
 今になってようやく、ちくちくと針で刺す様な痛みがその手に湧き起こって来る。
「すぐに引き離さないと手遅れになるのよ。あれは負の生命力に満ちているの」
 マーニーアンはそこまで言うと、俺の手に完全治療呪文マディをかけた。
「向こうの方で誰かに会ったのね。ドーム。よほど断ち難い人と」
 俺はマーニーアンの質問を考えてみた。何も思い出せない。
 向こう?
 俺はずっとここで死んでいたんだぜ。
 しかし、俺はなんだか忘れてはならないことを忘れたような気がした。
 痩せた暗い目をした、見たことも無い男の顔が見えるような気もした。
 しばらく考えた末、俺は首を横に振った。
「知らない。何も思い出せない」
「そう。ドーム。それでいいのよ」
 マーニーアンは俺の顔をじっと見つめて言った。
「あの布は処分するわ。いいわね? ドーム」
 俺は頷いた。何か懐かしい人の面影が思い出せそうな感触があったが。
 月影が首筋を揉み揉みやって来た。ご苦労、とキリアが労う。
 何だ? 何があったんだ? 一体全体?
 マーニーアンが冥界布の入った魔法陣に向って呪文を唱えた。それと共に魔法陣の中で炎が燃え上がった。

 驚く俺達の目の前で、布は叫んだ。人の声で!
 焼け、変形し、ちぢれ、そして確かに・・・
 スーリの顔へと変貌し、もう一度何かを叫んでから、布は焼け落ちた。