気がつくと、俺たちは街の広場の中央に立っていた。
いつもならすぐに駆け寄って持物の検査を始めるはずのウィズ保険組合の監査官が寄って来ない。どこか街の遠くで騒ぎが巻き起こっているのが聞こえる。
帰還呪文ロックトフェイトか。本来、この呪文は自分たちのパーティにかけるものだ。他人に直接かけることができるなんて初めて知った。
「人を鎖に変える? 一体、オーディンは何を言おうとしたのじゃ?」キリアが首を傾げる。
「やっぱり、あれは底意地が悪いんだろう。わざわざ謎々にするとは・・」シオンが溜め息をついた。
「酒を飲みながら考えないか?」俺は提案してみた。
残り時間はすでに一時間を切っている。
キリアが気むずかしい顔で頭の中の思考を口に出している。
「人・・鎖・。わからん。オーディンはわしらをからかっているのか。こうなればスルトを倒す方法を考えねば。街中の魔術師を集めて総攻撃をかけるか。いや、無理じゃのう」
「スルトはそんなことじゃ、死なないでしょうね」とマーニーアン。
「あの神を殺すことのできる者はおらんよ。例え、オーディン神とグングニールでも。世界の滅びを具現する神だ。言わば世界が作り出した神なのだから」
キリアが肩をすくめる。
俺は戦士だ。頭を使うのは俺の仕事じゃ無い。だから俺はキリア秘蔵の酒を飲み続けた。
世界が滅びるまでにせめて、キリアの家の酒倉ぐらいは空にしておきたい。
「オーディン神が嘘をついたのではないか?」シオンだ。
酒を忘れて議論に加わるとは、酒飲みにあるまじき振るまいだと俺は思う。
「いや、まったくの嘘ではブラック・ジョークにさえならない。ひねくれた形ではあるが、恐らくは真実じゃ」とキリア。
「いっそ船に爆弾でも積んでスルトにぶつけてみるか」とシオン。
「そこまで強力な魔力の籠ったものがあるのか」
「ル・クブリスの珠はどうだ?」シオンが指摘した。
「おお、それじゃ!」キリアが手を叩いた。
月影が無言のまま部屋に入ってくると、テーブルの上に水晶の欠片を置いた。
「召喚部屋にはこれしか残っていない」
キリアががっくりと肩を落とした。
「ル・クブリスも逃げ出しおったか。役目を終えると自壊するようにしておったのじゃな」
「そうか!」
シオンがテーブルを両手でバンバンと叩いた。その手の下でテーブルが粉々に砕ける。マーニーアンが眉をひそめた。シオンは後で代金を請求されるのかな。
ダンジョンの中で見つかった木製の盾から、このテーブルを作り上げるのにキリアがどれほど苦労したか俺は知っている。
街の周りに生えている木は、不思議な事に切り倒して加工しようとした途端に崩壊するのだ。
「なんだ? シオンよ?」
不機嫌にキリアが聞く。無理も無い。
「船だよ。じいさん。根源の神々の居場所は遠い。船でも行き着けないぐらい。
だが最初に船を加速できれば。この街に存在する全ての魔力を使って船を可能な限りの遠くにほうり出せば」
「それはかって、わしも考えた。だが、それでは街が衝撃で崩壊…」
そこまで言って、キリアははっとした。
「そうか! 街を気にする必要はもう無いんだ」
俺は酒に朦朧とした頭で驚いた。
キリアが街を気にして、船を撃ち出すことを控えたってことをだ。
街一つ犠牲にして根源の神々に近付けるなら安いもの。キリアならそう考えるのが普通のはずだ。
そこまで思考を辿ってから気が付いた。マーニーアンだ。
影の存在に属する僧侶のマーニーアンはカント寺院に縛りつけられている。街を破壊すればマーニーアンも当然死ぬことになる。
やっと、すべての破片がぴったりと納まったので、俺は酒を飲み続けることにした。
人と鎖か・・オーディン神も人の頭を痛くすることが好きと見える。
なんだろう?
何かひっかかる。
酒を楽しむ俺の周囲で、キリアとマーニーアンとシオンが忙しく飛び回っている。
船を撃ち上げる呪文の作成にかかっているのだ。残り時間は後、四十と五分。
頑張れば少なくとももう一樽ぐらいは飲めるだろう。
俺は戦士だから呪文が使えないので、この事態でもゆっくりと酒が飲める。戦士で本当に良かった。心底そう思った。
その間に月影が船の様子見と必要な食料を積み込みに行くことになった。ちらりと俺を横目で見てから月影は出て行った。
ああ・・月影よ。お前は酒の楽しさを知らない。
がちゃりとドアの開く音に続いて、どかどかと踏み込む足音。
それを聞いて、俺は脇に置いてあった剣を掴むと、すらりと抜き放った。
強烈な殺戮への意志を感じさせるオーディンブレードの剣先を見つめながら、その老人たちは硬直した。
見覚えがある。この街を支配している長老評議会の連中だ。
その後ろに控えるのはキリアが名誉顧問をしているウィズ大学の長老連。ドアの脇に彼らを避けて月影が立っている。
俺の朦朧とした酔眼と鼻先に押し付けられた微動だにしない剣の先とを交互に見つめながら長老の額から汗が一筋すうっと流れ落ちた。
武器を持った酔っ払いほど怖いものはない。その通り。
「ドーム。剣を引け」キリアが奥から出てきて言った。
「これはこれは、評議会の面々に長老がた、今日は大学はお休みですかな?」
とぼけたじいさんだ。キリアは。
「偉大なる学問の主、キリア・イブド・メソ老師よ」評議会の筆頭長老は言った。
「どうか、お助け頂きたい。すでに我々は何が起きたか判っております」
身振りで椅子に座るように合図するとキリア自身も椅子を引き寄せて座った。座る椅子が無くなったので俺は酒樽を抱えて立って飲むことにした。ただし、右腕は腰の剣の柄にかけたままだ。
もちろん長老連中は平和主義者だ。しかし、人間は豹変する。人狼に噛まれていなくてもだ。
ましてやキリアの小さな船に街の全ての人間が乗るわけには行かないのだから。
「その前に、キリア。船のことだが」月影が口を挟む。
無言のまま叱責の眼でキリアが月影を睨む。それに構わずに月影は続けた。
「船は暴徒によりほぼ完全に破壊された」
キリアが椅子に深く腰を落した。肩ががっくりと落ちる。
「どこかの馬鹿が逃げ出そうとして、見張りの奴隷を殺して船に乗り込んだらしい。それからその馬鹿はわけも判らずに船を動かした。
船の係留所にはマストだけが突き出している。床下三十フィートへのマーラーテレポートだ」
それで月影の報告は終り。俺たちの希望もだ。船は地面の中に飛び出し、岩や土と融合した。船も、乗っていた人間も、すべて岩と同化している。デッドエンド。一巻の終りだ。
俺の選択は間違ってはいなかった。やはりここは世界が終わるその時まで、ひたすら酒を飲むのが正しい。
それでも俺は最後の瞬間に街で一番高いカント寺院の塔の頂上に登り、スルトの鼻面にオーディンブレードの一撃を浴びせるつもりだった。
それまでは酒を飲んで力を蓄えよう。
だが、気になる。何かが頭の中に引っかかって素直に酒に酔えない。考えるのは俺の仕事じゃ無いのに。
『お前さんは本当は鋭い知性を持っているんだよ』誰かの言葉が思い出された。
そんな馬鹿な。俺はその言葉を一蹴した。
キリアたちが状況を長老連中に話している間中ずっと、俺は考え続けた。
早く答えを出してすっきりして、それから酒を楽しもう。答えがでないと酒は楽しめない。このままでは酒を楽しむ時間自体が無くなってしまう。
それは嫌だ。
人と鎖。人を鎖に変えるって何だ。金槌で叩けば人は鎖に変わるものだろうか。
鎖か。人を並べて鎖に見立てる。それで何がどう変わる?
わからない。そこでキリアに尋ねてみた。
「キリア。人を並べると何かが起こるのか?」
「特に何も起きんよ」キリアは上の空で答えた。「影の存在だけのときは」
「冒険者だと?」
「やはり何も起きんよ」
うん? 何か見逃している。
「キリア」
「何じゃ。うるさい。大人しく酒でも飲んでおれ」
「そうするつもりだけど、最後に一つだけ」
「言ってみろ」
「冒険者と影の存在を並べたら何が起きる」
「その場合は冒険者が影の存在に影響を与える。質量共鳴効果じゃ。影の存在はよりはっきりと存在するようになり、独自の質量を獲得する。その魔法質量は街を取り巻く霧から供給される」
キリアはしばらく固まった。それからようやく口を開いた」。
「そうか、そういうことか。これが答えじゃ」
キリアがウィズ大学の長老連中の方に向き直った。
「以前、話し合った、意志確率宇宙論を覚えているな?」
「冒険者の意志が向けられている部分に質量共鳴効果で実体が生じるって論でしたな、確か・・」長老の一人が答える。
長老連中も老人なのに丁寧な言い方をするのは、キリアの方が飛んでもなく歳を取っているせいだ。キリアが産まれたのは天地開闢の時ではないかと、俺はそう睨んでいる。
とにかく、初めて俺がキリアに会った時にすでにキリアはじいさんだった。
「そうじゃ」キリアは生徒に教え諭すような調子で続けた。
「冒険者が見つめた部分に新たに世界は作り直される。そのために必要な質量は世界を取り巻く確率雲、あの奇妙な霧から引き出される。
だがここが肝心なのじゃが、その霧にも限界はある。もし世界の限界を越えるだけの質量を引き出せれば、もしかしたら世界の構造が破壊されるかも知れん。脱出のチャンスはそれだけだ」
「しかし、計算では二十人の冒険者が全て周囲を認識したとしても、限界にはほど遠いと結論が出ております」
長老は食い下がった。
「そうだ、だが、冒険者が見つめたものは実体と化す。それは影の存在を見つめた時も同じだ。
では実体と化した影の存在がまた別の影の存在を見たら、恐らくはその瞬間だけでも、それも実体となるに違い無い。
連鎖反応じゃ。全ての秩序を破壊する鍵はそこにある!」
「でも」長老たちは抗議した。
「でも、では無い。すでに時間は無い。議論している間に皆死ぬぞ。すぐにでも試して見なくては」
「後、五分よ」マーニーアンが付け加えた。
俺たちは外に飛び出した。
暗い空、その遥か遠くにポツンと輝く赤い星が現れている。
こちらに向って飛んでいる太陽の巨神だ。
俺たちは街の中央に人々を集めた。カント寺院の尼僧たちが走り回り、ウィズ大学の連中も協力したが、一番はマーニーアンが宣伝魔法で街中に広めた噂だった。
いわく、街の中央に脱出用のゲートが開かれると。
興奮状態の群衆をなだめながらキリアとマーニーアンが広場に面した建物のバルコニーに立った。誰もが喚き騒ぎ声が聞こえない。
俺たちの出番だ。
シオンの棍棒と俺のオーディンブレードが絶大な説得力を発揮した。特に俺がオーディンブレードを振るって、家を一件まるごと切断した時と、シオンがそれを棍棒でたちまちに平にしたときにだ。
家一件を平にするのに十五秒。シオンにしても新記録だろう。
それ以降は市民も他の冒険者たちも実に大人しくなった。
うん。人間は何よりも話合いが大事だ。
カント寺院から出てきた連中は整然とマーニーアンの命令に従っている。
さすがはカント寺院の尼僧長だけはある。カント寺院の寺院長までもが大人しくマーニーアンの言葉に従うのには少なからず驚いた。
彼女の影響力がこれほどの物とは今の今まで知らなかった。
頭上に迫る危険は恐ろしいほどのプレッシャーだ。だが、俺たちは危険の中で生きている。全員が生き残りの猛者なのだ。
しかしこれだけの群衆が街に住んでいたとは驚いた。
「皆の者、よく聞け」キリアが大声で呼ばわった。
「空に見える巨神はやがてここに到達する。お前たちの中に一人、あの巨神を怒らせた者がいる。それを差し出せば巨神は自らの住処に帰る」
ああ、俺はその犯人を知っている。たしか名前の先頭が「キ」で始まり、名前の終わりが「ア」で終わる爺さんだ。しかしキリア、よくもまあこう平然と嘘がつけるものだ
「その犯人は左目の横に小さな星型のアザがある。さあ探すのじゃ」
群衆が一斉にお互いの顔を調べ始めた。
後、一分。
街の建物が微かに輝き始めた。
質量共鳴効果というやつか。どことなくぼやけていた群衆の顔が次第にくっきりとし始めた。
後、三十秒。
巨神はますますでかくなる。街のあちらこちらで巨大な人の輪が幾つも出来上がる。
街から立ち上る輝きはますます強くなる。
恐らくは今ごろ、街の周りを取り巻く、あの不思議な霧はどんどん減少しているのだろう。霧が食われて街へと姿を変えていると言ってもよい。やがて、変換する霧が間に合わなくなる。キリアはそう断言していた。
キリアとマーニーアンが走り回っている。
街のどこかに、世界がフォローしきれなくなった部分が出来るはずなのだ。
俺は空を見上げた。今や太陽の巨神はその顔に浮かべた邪悪な笑みまで見えるようになっている。
世界の裂け目ができたとして、キリアがそれを固定するのにどれだけかかる?
街中に散らばったシオンたちを呼び寄せて、その中に逃げ込むのにどれだけの時間がかかる?
間に合わない・・俺は決心した。
後、二十秒。俺はカント寺院の中を駆け抜けた。
階段を飛ぶように駆け上がる。酒臭い息を聖域に撒き散らしながら。
後、十秒。時間を稼ぐのだ。
ちらりと寺院の窓から見えた空で、巨神が着地のために態勢を変える。
来る。いよいよ。
後五秒。
階段の最上段だ。鐘突き堂。俺は窓から外へと飛び出し、危うく遥か眼下の街路に落ちるところだった。
指を引っ掛け、鐘突き堂の外にしつらえられた彫刻を登る。
「見つけたぞ!」下から小さくキリアの叫びが聞こえた。
マーニーアンの計算は恐ろしく正確だった。
時間だ。太陽の巨神が恐ろしい地響きと共に街に降り立った。幾つもの建物がそれだけで崩れる。が、さすがはカント寺院。作りがしっかりしている。揺れるだけで済んだ。
振り落とされまいと俺は鐘突き堂の頂上に突き出ている金属の棒に掴まった。
招雷針。
建物の頂点に突き出した太い金属の棒。
カント寺院の中で行われる秘密の儀式に必要な雷の精霊を捕らえるためのものだ。今はそれが俺の命綱。
下ではキリアが世界の裂け目を固定している所だろう。彼等が逃げ出すまでの時間を稼がなくては。
カント寺院のこの高さでも巨神の膝の位置までしかない。
だが、なんとしても、奴の、スルト神の注意を引かねばならないのだ。奴が超高熱爆裂呪文ティルトウェイトで街を焼き払う前に。
月の都市の様な防御装置はこの街には無い。一発撃たれれば街は消え去るだろう。
俺はオーディンブレードを腰から引き抜くと吠えた。
まるで、蚤がケルベロスに遠吠えしているようだ。俺はなんだか恥ずかしくなった。
信じられないことに、剣から白熱の炎が俺の腕をつたって駆け降って来た。
オーディン神の不興を買って以来、剣に狂戦士の力が宿ることは無かったのに。
『最後に一度だけ、わしの祝福をお前に与えよう。奪うこと無き祝福を』
そんな声が頭の中に響いて来た。この声は確かにオーディン神の声だ。俺は無言の祈りをオーディン神に捧げた。
熱い。
熱い。
身体が熱い。無限の力が俺の中に満ちた。
そして・・俺は再び吠えた。全ての怒りを込めて。
剣よ! 剣! 戦いこそが我らの望み!
俺と剣の周りに雷鳴が轟き、今までにこの世界に存在した全ての戦士の魂が俺の中に宿るのが判った。
たとえ世界が滅びるとしても。たとえ強敵にかなわないにしても。戦士がやることはただ一つ。
戦い続けること。
怪物がひしめくダンジョンの中で、策謀渦巻く王宮の中で、憎き仇敵と出会った荒地の中で、勝ち目の無い戦いに馳せ参じた全ての戦士の思いが俺の中には、ある。
俺はふたたび吠えた!
熱い熱風と言ってもよい揺らぎが俺の周りに生まれ、いきなり視点が転回した。俺は街を足元に踏んで、太陽の巨神、スルトと向き合った。俺はいま、剣の巨人となっている。そして破壊神スルトの前にある。
「お前は誰だ!」スルトは驚き、叫んだ。
「俺は戦士だ!」一言だけ答えると、俺は剣を構えた。
スルトが吠えた。びりびりと腹の底が震動した。塔のいくつかが崩壊する。
こいつは神では無い。悪魔だ。それも地獄の悪魔王のようなハッタリの悪魔では無い。無限の力を持った真の悪魔だ。
今までにどれだけの世界がこの悪魔に滅ぼされたのだろう?
スルトが手を振ると、その手の中から炎が延びて剣となった。ゆらゆらと揺れる燃える炎が剣を形作っている。その見かけに関わらず、恐ろしい強度を持つことを俺は直感的に悟った。
スルトが動いた。炎の剣が俺の頭目がけて一文字に振り降ろされる。
疾風の早さで動いたオーディンブレードが下からそれを跳ね上げた。予想通りに堅い手ごたえ。
削られた炎を散らしながら、スルトの炎の剣が弾き返される。同時に俺の身体の中のどこかで何かがごそりと抜け落ちた。
剣を打ち、それを弾き返す。
たったそれだけの動作に無限と言っても良いほどの魔力が消費されている。
もし、あの炎の剣が大地に刺さればそれだけで大地は熔けるだろう。生まれた溶岩の中に街が飲み込まれる。すでに大気は焼けて、金気臭い匂いが漂っている。
俺が倒れるまでにキリアたちがうまく逃げてくれればいいが・・。
スルトがふたたび前進した。今度は剣を水平に突き出す。
俺はその剣を巻き込んだ。
スルトは最強の破壊神かも知れない。だが剣技に関しては素人だ。今までこうして剣士と打ちあうことは一度も無かったのは間違いない。
俺は巻き込んだ剣を再び跳ね上げると、がら開きになった胴体にオーディンブレードを叩き込んだ。
炎よりも遥かに熱い神の血がしたたり、足元の建物をいくつか蒸発させた。驚きの表情を浮かべて、スルトが後ずさりをした。
その間を縫って、俺は呼吸を調えた。
力が・・脱落して行く。後、一撃。だが、もう力が残っていない。オーディーン神の力そのものが枯渇しかけているのだ。
俺は叫んだ。
「もっと力を!」
ドーム。その名は運命。世界の滅びという運命に抗うもう一つの運命。
右腕が燃え上がった。ルーン文字がそこに浮かびあがる。それは戦士が知っているただ一つのルーン文字。
「チュール!」俺は無意識の内に叫んだ。「チュール! チュール! チュール!」
幾千の戦士たちがその名と共に死んでいった。オーディンより先にある者。あらゆる戦士の信じる神。戦神チュール。
力が溢れ出した。オーディーン神よりも遥かに大きな力が。
『ドーム。いまぞ戦いの時』
剣も震えた。さらに何か別の力が、どこかわからない場所から声と共に流れ込んで来る。
『ひるむな。ぼうず』
力が満たされた。俺という器は完全に隅々まで力に満たされ、引き絞られ、そしてそれはスルトへと狙いをつけた。
次が俺の最後の攻撃になるだろう。俺は構えた。そう、これが最後の一撃だ。勝とうが負けようが、俺の体がこれだけの力に耐えられるわけがない。この先にあるのは死へと至る一本道。
いい人生だったぜ。剣よ。
あばよ、みんな。俺は一言つぶやくと・・跳んだ。
長い長い跳躍だった。
たとえどんな攻撃でもスルトのような破壊神は殺せない。破壊神は世界を構成するパーツの一つなのだ。だが、それでも次に世界を破壊する時には、この神は少しは考えるようになるだろう。
夕食のスープの中にドラゴン蝿が入っていないか、と。
防御は考えない。
俺はオーディンブレードを逆さに構えると驚愕を浮かべるスルトの上に飛び降りた。オーディンブレードがずぶりとスルトの胸を突き刺す。
熱い炎の血をまとわりつかせて、オーディンブレードがスルトの向こう側に突き抜けるのがはっきりと見えた。
それに応えるかの様に、スルトの炎の剣が上がると俺の脇腹に突き刺さった。
焼ける・・焼ける・・俺の身体が焼ける。
激痛が俺の身体を走り、炎が俺の魂を焼いた。
俺は叫んだ。そして・・。
カント寺院の招雷針を掴んだまま、叫んでいる自分に気が付いた。
街の遠くの方で倒れていた巨大なスルトが起き上がるのが見えた。確かにオーディンブレードで貫いたはずの神の胸には傷一つついていない。
全ては幻影だったのだ。オーディン神の得意技だ。いや、違う。チュール神の力も本物だった。それに他の何者かの助力も。その証拠に、スルトは自分の胸を信じられないように見つめている。痛みを我慢しているかのように胸を手で押さえている。
俺はスルトに一矢報いたのだ。それと時間も稼げた。
どこかカント寺院の下の方でキリアのものらしい叫び声が聞こえた。
「ドーム。飛び降りるんじゃ」
おい、おい、キリア。俺は鳥じゃ無いんだぜ。この高さから飛び降りれば死ぬのは間違い無い。
立ち上がったスルトが胸の前にサインを描き始めた。神の放つ超絶ティルトウェイト。わざとゆっくり呪文の詠唱をやっている。痛めつけられたお返しに、これから起こることへの恐怖を相手に刻みつけている。
陰険な野郎だなあ。
俺は剣を腰に納めると、ひょいと空中に飛び出した。もう、くたくただったのだ。階段を駆け下りる気力はない。
しまった。死ぬ前の最後の一口に酒を持って来ておくべきだった。