馬鹿話短編集銘板

愛の箱

 僕は今でも君を愛している。この世界の全てがたとえ幻だとしても、僕の君に対する愛だけは真実に違い無い。

 初めて君にあった時、僕の胸は高鳴った。やがて訪れるだろう恋の不思議な予感に突き動かされて、僕は君に声を掛けた。そして君もまた僕と同じ気持ちだったに違い無い。奇妙で微かな恥じらいの気持ちを頬に含ませて、君は僕の瞳を見つめた。
あの時から僕の魂は君のもの。その通りさ。

 夏を思わせる熱い嵐の時期、僕は君とともに舞い上がり、そして世界を手中に納めた。その時の僕には出来ないことは無いように思えたし、また実際そうだった。僕を思う君の愛さえあれば僕は何だって出来たんだ。
 空の色を変えて見せようか?
 ねえ、君。全ては君の望みの通りに。不思議だな。今の僕には、ただ君の笑顔だけが見える。

 そう、君の笑顔だけが。

 君の笑いさざめく声、僕を驚かせる大胆な行動。風を追って動く君の、きらめく瞳に浮かぶいたずらっぽい感情。不思議で魅惑的な君の匂い。僕の手をすり抜けて逃げる動きの巧みさ、そしてその体の熱さ。笑うと口の端に浮かぶ微かな皮膚の皺にまでも僕は惚れ込んだ。僕は君の全てを愛し、僕の全てを持って君に捧げた。君も僕を愛してくれたに違い無い。そうだとも、それ以外にあるものか。

 だが、もし、そうでなければ。

 何度も何度も、僕は夢の中で君を見る。君は初めて会ったあの時のままに、輝く瞳の中に神秘のきらめきを隠して、僕の心の奥を覗き込む。僕の思いは燃え上がり、そして愛を告白しようとする。ああ、だけど僕の言葉はどこかに逃げてしまい、僕はただ無言のままに君を見つめ続ける。苦しみは僕の胸の中にある。恋の炎は僕の心を焼き焦がす。

 ああ、この一言が言えさえすれば。

 君と会ってからの初めての僕の誕生日に、君は箱を一つくれたね。奇麗な浮き彫りで全面が装飾された、黒く磨かれた木の箱だ。僕の手の平の中にすっかりと納まるずっしり重たいその箱は、僕の手の中に期待を込めて納まっていた。箱はとても素敵な匂いがした。その箱の中に何が入っているのかと思って僕が箱を開けようとしたら、君は何時ものいたずらっぽい表情を浮かべて僕の手を止めると言ったね。
「この中にはあなたへあげる私の愛が入っているのよ。決して開けては駄目。もし開ければあなたへの愛はきっと逃げてしまうに違いないわ」
 ああ、僕の可愛いトリック・スター。僕は君の言葉を信じた。今まで君の話した全ての言葉を信じたように。そして絶対にその箱を開けないと君に誓った。僕は箱の重さに安心した。それが君の愛の重みだったから。

 そうとも、僕は箱を開けなかった。

 いかなる夏も永遠には続かない。深い緑を誇っていた木々でさえも秋の訪れを知り、そして過去の姿を微塵にも止めない萎れた茶色の枯れ葉を散らす。秋の冷たい風の訪れと共に、君は僕の誘いにあまり応じなくなった。君の瞳はもう僕を見てはいない。僕には見ることのできない遥かに遠くを君は見つめていた。
 僕は一人寂しく、自分の部屋の中で、君に貰った箱を振って見た。コトコトと音がした。箱がなんだか少し軽くなった様に感じ、君の心の揺れを示すかのように箱の中で君の愛が揺れ動いた。僕は悲しみに打ちひしがれ、やがて訪れる破滅の予感に脅え苦しんだ。君の愛は僕の元から去り掛けている。僕の手は迷い、箱の蓋を開けてその中にあるはずの君の愛を掴もうかとも思った。決してそれが逃げ出さないように、しっかりと。でも僕は自分の誓いを守ることにした。箱は開けない。君を失いたくは無いから。

 だけど、それは無駄だった。

 風は決して一つ所には止まらない。季節の移り変わりも、川の流れもそうだ。君は僕を避けるようになり、僕の手紙も電話も、もはや君に愛を伝えることは出来なかった。絶望と悲しみに痛む胸を抱えて、僕はそっと箱を揺すって見た。今や箱はとても軽く、中で小さな何かがぶつかる微かな音を立てた。君の愛は消えかけている。僕にはもうどうしようも無い。
 そして物語は悲劇を迎える。僕には止めることのできない運命の手に操られて。君は見知らぬ男と楽しげに笑い、語り合っていた。それは僕には見せたことのない、君の取って置きの笑顔。光がその内なる神聖な場所からこぼれ落ちるかの様な笑顔。茫然と道端にたたずむ僕に気付かずに、君は笑いながら僕の側を通り過ぎて行った。

 箱はもう音を立てなかった。

 苦労の末に君を呼び出して、僕は箱を君に渡した。嫌悪の表情を顔一面に浮かべて君は僕に箱を返した。
 もう開けて見たんでしょ。君は僅かに軽蔑を込めてそう僕に言った。君が僕を軽蔑しているのを知って僕の心はひどく痛んだ。いいや、と僕は首を振った。決して開けるもんか。
 開けてみなさいよ。それが君の返事だった。あたしの愛を失うのが恐くて箱を開けても見ないなんて、なんて臆病な人かしら。そうも呟いた。だけどそれは僕の心に潜む悪魔が囁いた言葉に違い無い。君がそんなことを言うはずがない。世界で一番優しい君がそんなことを言うはずが無い。
 だから僕は箱を開けた。この一瞬。今の一瞬。箱の中に止められていた、君の僕に対する愛は縛めから解放されて再び君へと戻る。そうしてまた素晴らしい恋の季節が新たに始まるのだと、僕はそう信じていた。

 だけど、箱は空っぽで、そこに在ったはずの君の愛はどこにも見当たらなかった。
 君は僕を笑い、そして真実を告げた。

 それっきり、君とは会っていない。奇麗な浮き彫りで装飾された箱の中に入っていたのは匂い玉。香り高く、だけど時と共に消えて行く。君の愛そのもののように。
 君の愛は消えた、けれども僕の愛は消えてはいない。僕は今でも君を愛している。前よりも熱烈に。君が僕を愛していないなんて嘘だ。世界中の人が全て騙されたとしても、僕だけは騙されはしない。君は僕を愛している。君は嘘をついている。いや、君が僕に嘘を付くはずが無い。僕はきっと狂っているのに違い無い。

 そうだとも。僕は狂ったのだ。

 君の愛の代わりに、僕は君への愛をその箱に納めることにした。一度それに触れれば余りの熱さにどんなに冷たく凍り付いた心も溶けるに違い無い、そんな純粋な愛を。箱は今は何の音もしないし、軽いけど、君に対する僕の愛が膨らめば、きっと持ち切れないほどになるに違い無い。愛が箱に納まりきれなくなって、箱が自分から壊れるまでは、僕は箱の蓋を開けるつもりは無い。

 今でも僕は君を愛している。目に浮かぶ君の笑顔、笑い声、僕を見つめる優しいまなざし。寝ていても起きていても、心に思うのは君のことばかり。僕の心はその度に悶え、癒せぬ渇きに僕は苦しむ。
 だけど僕は信じている。君が僕の下に戻ることを。何故なら箱の中には僕の愛が入っているのだから。

 昨日は箱はカサカサと音がした。今日はコトコトと音がする。その通り。だんだんと箱は重くなっていく。僕の心の通りに。愛は膨れ上がる。止めどもなく。
 そうして僕は何度も何度も君の夢を見る。僕の手を取り、陽光の中で笑いさざめく君の姿。ちょっと首を傾げてポーズを取った姿のままで。君の瞳は僕の姿以外、何者も映しはしない。もう誰にも僕から君を奪うことなど出来はしない。箱の中で膨れ上がる僕の愛がそう告げている。

 膨らんだ箱には今や亀裂が入り、何かがその中でうめき声を上げている。そのときが近づいている。誰にも僕の愛を止めることなど出来はしない。この箱が開けば、君はもう僕のもの。

 待っていて。愛しい君。いま僕の愛を届けるから。