馬鹿話短編集銘板

愛しの妻

 お金持ちの男はすぐわかる。
 ううん。着ている物とかつけている腕時計とかそんなのじゃない。雰囲気って言うのかな。体からお金のオーラが噴き出ている感じというか。
 あたしはお金が好き。贅沢な生活が好き。そのことを隠すつもりはない。
 だから顔も磨いてきたし、体も磨いてきた。それ以上に、自分を美しく見せるための色々な技術も身につけてきた。鏡を睨んでの笑顔の練習。ちょっとした会話の受け答えのテクニック。そして相手の心理分析。その気になれば学位なんか簡単に取れてしまうぐらい勉強してきた。
 それもこれもお金持ちの男を見つけるため。お金持ちになるための一番の近道。

 もちろん合コンなんかには行かない。女に飢えた貧乏男たちが集まる場所に行っても仕方ないから。あたしはもっぱら街でハントする。だって見ただけで相手の多くが判るのだから。
 逆ナンパってやつだけど、相手にそうと悟らせないためのテクニックぐらいは使う。運命の出会いっていうのかな、そんなのを演出するの。男ってたいがい自惚れ屋のロマンチストだから。運命が自分のために素晴らしい伴侶を用意していると心の中で期待するほど馬鹿だから。


 彼を見かけたのはそんな街角ウォッチング。
 彼は綺麗に決まったスーツで歩いていた。スーツはごく地味な目立たないものだったけど、オーダーメイドの一級品だとわかった。たぶん一着二百万円クラス。それを抜きにしてもお金持ちのオーラを放っていた。それも相当な。
 思わず彼の左手を確かめたわ。結婚指輪を嵌めていた痕がある。それも直前に外したものじゃない。ということは離婚した後か、それとも奥さんを亡くした後。あたしの眼力はホームズもかくやというところね。
 さりげなく後をつけたわ。書店、デパート、喫茶店。彼は趣味の良さを惜しげもなくまき散らしながら散歩を楽しんでいた。デパートの売り場では売り場主任が出てきて彼に深々と頭を下げていた。やっぱりあたしの目は間違いない。

 恋に堕ちちゃった。だいぶ不純だけどね。でも彼はとてもハンサムよ。顔もそうだけど体もね。歩く姿を見ていたらわかる。細身に見えるけどそれは贅肉一つついていないからで意外と筋肉があるの。運動選手が見せるきびきびとした歩きかたね。
 もし彼の頭の上に得点が出るとしたら百点万点。

 絶対に逃したくなかったから時間をかけて慎重に近づいた。密かに探偵まで頼んで。そういった業界であたしに借りがある男たちは何人もいて、役に立ってくれている。
 あたしの読みは当たった。
 彼は実業家で大金持ち。ただし表には出ない形で多くの資産を動かしている。取引相手は大勢いるけど、親しい友人と呼べる者はいない。というよりは個人的な人付き合いはまったく無いと言ってよい。最近結婚相手を亡くし、相当落ち込んでいる。物凄い愛妻家だったらしい。何という素晴らしいタイミング。
 本人も自分が落ち込んだ状況から何とか抜け出したいようで、あたしが彼を見たときはその気分転換のプロセスの一部だったみたい。彼はかなりの時間を高名な精神カウンセラーの元で過ごしていることが分かった。
 だからそこを接点に選んだ。
 彼が決まったスケジュールでカウンセリングに出かけるのが分かったので、その前後に予約を取ってあたしもカウンセラーに通った。もの凄い値段を取られたけどね。中身はただお客の話をうんうんと聞いて頷いているだけなのに。あたしが仮病を使っていることにも気づかないんだから笑っちゃう。

 まずは簡単な会釈から、待っている間の軽い会話。偶然を装っての出会い。
 ほんとにもう。イライラしたわ。でも我慢した。それだけの苦労を払うだけはある大物だもの。
 一か月頑張って、親しくお話をするようになった。そこから自宅に呼ばれるまでは直ぐ。でもセックスの匂いは一切無し。彼は死んだ奥さんに操を立てていたの。
 そうでなければ彼ほどの獲物を他の女性が放っておくはずがない。この一か月の間だって不用意に彼に近づいて撃沈していった女性をたくさん見たわ。あらあら駄目よ。そんな杜撰なアプローチじゃ、彼は落ちないわ。

 ついに招かれた彼の自宅は大豪邸。高級な建築材料を惜しげもなく使った芸術品のような邸宅。人里離れたってほどではないけど、周囲の森はすべて彼の持ち物だったから、家を訪れる人はほとんどいない。彼はそれほど人嫌いだったの。孤独の星っていうのかな。仕事関係の知り合いはたくさんいるけど、友人と呼べる人は一人もいない。
 彼の家で最初に目についたのは綺麗に手入れされた庭だった。広い庭いっぱいに、名も知らない青い花が一面に植わっていた。色んな種類のだけどすべて青い花。奥さんが青が好きだったって説明していた。
 玄関には有名な画家の絵が飾ってあった。あたしは芸術には興味がないけど高価な絵はそれなりに知っている。だから画家の名前を聞けば、その絵の価値ぐらいはすぐわかる。驚いたことにこの絵も青を基調としていた。彼って徹底している。
 応接室に案内されたわ。隅々まで掃除の行き届いた部屋。定期的に専門の掃除の人が雇われて訪れるらしい。彼がお茶を入れに行った隙に、奥の居間をこっそり覗いちゃった。居間の壁の中央には写真が一枚飾ってあった。とっても綺麗な女性の写真。その人は写真の中でただ一人、美しい青のドレスを着て微笑んでいた。まるでモデルのように綺麗な人。スタイルも最高、雰囲気も上品。
 そしてその写真の両側には零れんばかりに咲き誇る青の花束。
 あたしは初めて嫉妬を覚えた。
 彼が帰ってくる前に奥さんの写真をスマホに撮って、何喰わぬ顔で応接間に戻った。そこで体が埋まってしまいそうな柔らかなソファに腰掛ける。
 彼が入れてくれたお茶を飲みながら他愛もない話に興じる。いかに愛していようが死人はお喋りはしてくれない。彼は人の温もりに飢えている。
 ええ、そうよ。たとえ人嫌いでも人の温もりは欲しいものなの。今までにもそういう人たちはいっぱい見てきたわ。そこが唯一の狙い目。人は一人じゃ生きられないの。
 やがて二人で頻繁に食事に出かけるようになった。彼の行きつけの高級レストランは落ち着く調度に囲まれた隠れ家的なお店だった。実際に彼が支払うところは見たことがなかったけど、料理の素晴らしさがどれだけ高価な店かを示していた。

 結局、体の関係には発展しなかったわ。
 最初はよくある中性タイプなのかと思った。ほら、性欲に興味がないってタイプ。だけどそれは違うとすぐわかった。あたしを見る目の中に隠しきれない欲望があったから。男の人のこういう目はすぐにわかる。山ほど経験があるから。
 でも肝心なところになると邪魔が入る。彼の動きが止まるの。
 私の肩を抱き寄せようとするとき、映画館でスクリーンに魅入るあたしの横顔に彼が顔を寄せたとき、セルフサービスの喫茶店でコーヒーを自ら運んでくれたときの背後から近づくとき。
 彼の欲望がひらめく一瞬になると、物凄く寂しげな表情が彼の顔に浮かぶの。その原因は瞳の色を見ればわかる。彼の欲望が弾けそうになるたびに、死んだ奥さんへの愛情がいきなり蘇っては、彼を責めさいなんでいる。そう理解した。

 あたしも頑張った。物凄く頑張った。精一杯のおしゃれをして、彼のレベルに追い付くように色んな勉強も習い事もした。自分で自分を褒めたくなるぐらいに頑張った。
 でもどうしても駄目。彼の中にある奥さんへの思慕には敵わない。初めてのキスを交わした瞬間、彼の瞳に過ぎる凄まじい苦痛の色を見たら、それが分かった。
 ずるい。死んだ人と比べられたら、あたしは絶対に勝てっこない。思い出の中で彼の奥さんはどんどん美化されていく。あたしがどれだけ頑張っても、死んだ奥さんはこの女性よりも素晴らしかったと心の中でタグづけされて終わり。

 こんなことってある?
 あたしはもう彼の財産なんかに興味ないのに。彼の愛だけが欲しい。その視線のすべてをあたしに釘付けにしたい。彼の頭の中をあたしで一杯にしたい。
 でもそれらはすべて彼の死んだ奥さんのもの。決してあたしのものにはならない。
 この心と体を焦がす深い嫉妬の炎。息をしている間ずっと胸が苦しいこの思い。

 彼を愛している。
 あたしってこんな女じゃなかったはずなのに。


 ある日、彼の留守の間に邸宅にお邪魔することになった。貰った合鍵で入り、彼が帰ってくるまで待つことにした。
 居間には相変わらず奥さんの写真。毎日新しく飾っているに違いない青い花が写真の両側で咲き誇っていた。
 今日は彼の私室を覗いて見た。罪悪感はあったけどこの誘惑に勝てる女性なんかこの世にいるものですか。彼の部屋はかなり大きな部屋で、壁いっぱいに本棚が並んでいた。その中には稀覯本の類も混ざっている。ここに並ぶ本の値段だけで億は下らない。部屋の奥には彼の大きな執務机。その上に仕事の連絡に使うパソコンが載っている。まるでどこかの映画に出てくるヨーロッパの貴族のような部屋。アンティークの高価な調度が絶妙のバランスで配置されている。
 執務机の横の本棚には本ではなくてプライベートなものが並んでいる。何かのトロフィー。記念品。一点ものの美しい近代芸術風の壺。金でできたフィギュア。
 お行儀悪く少し探ってしまい、アルバムを見つけた。
 胸の中で炎が燃え上がる。その炎は青い色をしていた。きっとその中は奥さんの写真でいっぱいなんだろうな。
 怖いもの見たさでアルバムを開いた。でもそれはあたしの予想とは違っていた。
 写真に写っているのはいつも独りぼっちの彼だけ。それとあちらこちらに旅行したときのものと思える風景写真。この中には奥さんの写真が一枚もない。

 これはいったいどういうこと?
 奥さんとのツーショットの写真はないの?
 まさか奥さんが死んだときに全部捨てちゃったの?
 疑問は尽きなかったけど彼に聞くこともできないので解決はしなかった。

 その内やっと、応接室じゃなくて最初から居間に入れてくれるようになった。彼は少し気恥しそうに部屋を見せた。本当はもう知っていたけどね。
「あいつの写真を飾っているのはこの部屋だけなんだ。どうしてもまだあいつがそこにいるような気がしてね」
 それは半分真実、そして半分ウソ。奥さんの写真はここに飾ってある一枚だけ。確かにこの部屋にだけ飾ってあるけど、他は飾りたくても写真が無いんでしょ?
 あたしはあらゆる手を使って場の雰囲気を演出した。今までに習い覚えた全部の手管で。決してこちらからはセックスは匂わせず、それでいて相手を誘惑していく。ついには何かの美術の本を覗き込む形で彼の横に座り、ちょっとしたきっかけで顔と顔の距離を詰めた。一瞬動きの止まった彼の隙をついて唇を重ねようとする。彼の目が驚きに開き、そして細くなり、逃げようとする動きが止まった。理性と欲望がせめぎあう瞬間。
 今だ!
 でも、あたしの唇は相手のそれに触れる寸前で逸れた。彼が顔を横に向けたのだ。その視線の先にあったのは奥さんの写真。

 このタイミングで?
 ウソでしょ。

「ごめん。どうしてもあいつの見ている前では」
 彼は謝った。それが余計に悔しい。胸の中で炎が燃え上がった。どこまで奥さんはあたしと彼の仲を邪魔するの。もし感情の炎が肉体を焼くものならば、彼の目の前であたしは炎のタイマツになっていたに違いない。
 彼が止める間もなく、あたしはつかつかと奥さんの写真に近寄ると、写真の向きを変えようとした。
「ダメだ!」彼が叫んだ。
 重い?
 写真が入っているケースは見かけよりも重かった。それも道理、大き目の写真立ての裏に何かがガムテープで止めてある。
 あたしは躊躇わずにそれを引きはがした。慌てた彼がソファーから飛び上がり、あたしに迫ってきた。
 重さからして細長い金属の何かだ。
 彼が伸ばす手をかいくぐり、あたしはその包装を剥がした。中から、一本のナイフが飛び出した。
「ああ」彼は一言だけ漏らすとその場にくずおれた。
 独特の形状をしたピカピカのナイフ。象牙らしき柄に鋭い刃先。実際のアウトドアには使わない、あくまでもコレクション趣味のための高級品だ。
「これは何?」当然の疑問。
「それは・・僕の罪だ」苦しそうな声。
 彼は堰を切ったように話始めた。今までずっと隠していた秘密を。それは長い間に彼の中でどうしようもなく膨れ上がり、もはや留めておけなくなったものだ。彼は気づいていないようだが、目の端から涙が流れ落ちている。拭ってあげたかったけど、彼の話が中断されるのを恐れてあたしは動けなかった。

 彼の奥さんは浮気していた。
 信じられない。彼のような素敵な旦那さんがいるのに。
 そして奥さんと浮気相手は抜き差しならない関係へと発展し、ある日奥さんは彼に宣言した。この家を出ていくと。彼は必至に説得したが、新しい恋に舞い上がった奥さんは決心を変えなかった。
 その結果がこのナイフだ。

「でも警察はどうやってごまかしたの?」
「警察は介入しなかった。妻の死体はこの家の裏に埋まっている」
「死亡届は?」
 聞いてはみたが特に何か考えていたわけではない。頼める医者がいれば死亡届はいくらでも偽造できる。
「出していない。そもそも妻との婚姻届けは出ていないんだ。僕たちは結婚とは自由を縛るものという考えだったから。結婚指輪だけはケジメとしてお互いにつけてはいたが」
「あたしは誰にも言わないわ」
「言ってくれても構わない。警察に捕まって殺人の罪で死刑になっても構わない。それが僕にふさわしい罰だから。何度か自首もしようとしたんだ。でもそうなったら誰が彼女のお墓に参るんだ。彼女は天涯孤独だったんだ。僕以外には誰もいない」

 その後、彼はあたしを連れて家の裏に案内してくれた。
 裏手の森は密生しているように見えるけど、外から見ても分からない秘密の小道が隠れていた。彼はそこを通ってあたしを森の奥へと連れて行った。細い小道の先には小さな空き地があってそこだけ日の光が惜しむことなく降り注いていた。そこにも青い花が咲き誇っていて、中央に盛り土があった。
「この下に妻が埋まっている。ああ、僕の罪。僕の罪。許されざる僕の罪。その罰は永遠に彼女一人だけを愛すること」
 盛り土の横にはこれも目に鮮やかな青い花束が供えてある。
 毎日、ここをこっそりと訪れて花を供えていたのかと思った。深い深い愛。それは相手を殺してしまったことによりさらに結びつきを強めて、決して色褪せることのない思い出になってしまっている。
 愛と、愛を失いかけた恐怖と、そして愛する者をその手にかけてしまった絶望。人間の持つ強い感情すべてが死人たる彼女の上に集約されている。
 敵いっこないと判った。あたしが何をしてもこんな愛に敵いっこない。
 でも諦めるのはイヤ。何としても彼の愛が欲しい。その恐怖も。その絶望も。彼のすべてが欲しい。
 ああ、神様、命でも魂でもすべて差し上げるから、このあたしの願いを叶えて!


 でもある日、あたしは街を歩いていて驚きに固まった。
 目の前に彼の奥さんがいた。彼女はあたしの向かいを歩いて来る。ついに怒った奥さんの幽霊があたしを罰するために出て来たのだと思った。
 いいわ、こうなったら奥さんの幽霊に説教してやる。いつまでも死んだ人が彼を独占しないでと。
 でも違った。ものすごく違った。それはどう見てもごく普通の生きた人だったの。
 もちろん後をつけたわ。あたしがその気になったら絶対に撒くことなんかできはしない。
 その女性は綺麗な新築のマンションへと姿を消した。エレベーターがどの階に降りたかだけを確認して、あたしは撤退した。
 その日、うちに帰ってから、スマホから奥さんの写真を取り出した。ネットで画像検索にかけて探してみる。
 一件だけヒットした。
 そこに出てきたのはあるモデルの名前。それ以上は何も出なかったので、あたしは奥の手を使った。昔の知り合いに頼んで調べて貰ったのだ。彼は違法な手段でのネットでの調査が得意。今までにも何度かお世話になっている。
 結果が出るまでに一週間は掛からなかった。やっぱりあのマンションに住んでいるのがその人だ。
 彼の奥さんは死んだのではなくたんに離婚しただけなの?
 でもそれじゃおかしい。離婚した奥さんの写真を部屋に飾ることはあっても、それに花を供えるわけがない。
 遠まわしなことをするつもりはなかった。今度は彼女に直接アポを取って喫茶店で対面した。もちろん身分は偽った。親しい人に頼まれて、この人を探していますって。彼の写真を見せた。一緒に歩いているところを見かけた人がいますって。
 彼女は見知らぬ他人であるあたしにも快く応対してくれた。
 色々と聞き出した。
 彼女は売れないモデルをやっている。例の衣装はどこかのファッションショーのもので雑誌に掲載されたことがある。そしてその衣装は二度と表に出ることなくお蔵入りした。
 そして何より大事なことは、彼と彼女の間には何の接点もないこと。
 ということは、彼の奥さんの写真というのはその雑誌に掲載された彼女を再度写真に写し撮ったものなんだ。
 でもどうしてそんなことを?

 あたしはついに決心した。例のナイフをこっそりと盗み出したのだ。重量でバレないように写真立ての裏には代わりの工具を包んでおいた。
 鑑定は昔の知り合いに頼んだ。あたしは色々と役に立つ男たちの人脈を持っている。警察の鑑定課に所属する人にナイフを調べてもらったのだ。口は堅い男だからまずい鑑定結果が出ても安心だ。昔作った貸しはこれでチャラになったけど全然問題なし。まだ彼の恥ずかしい写真のネガがあるし。
 結果はシロ。それどころかそのナイフはまったくの新品だって。人どころかお肉もお魚も切った形跡は無し。洗い流したのかと尋ねてみたけど、水で洗ったぐらいじゃ痕跡は消せないんだって。刃の部分の微小な欠けもないし、完全な新品であることは保証するって。
 結局ますます謎は深まったばかり。
 今度は奥さんの部屋から色々と盗み出した。彼は奥さんの部屋を死んだときそのままに手つかずでおいておいたんだ。盗み出したのはヘアブラシや口紅、それに腋毛処理用のカミソリなんか。洗面所からは奥さんの歯ブラシも取ってきた。代わりによく似た歯ブラシを置いてきた。ばれませんようにと祈りながら。
 全部鑑定に出した。結果は全部シロ。すべて新品だった。ヘアブラシには毛髪すらついていない。
 これはいったいどうゆうこと?
 考えあぐねているあたしに鑑定課の男から電話が掛かってきた。
「あのな。迷っていたんだがやっぱり言っておく。実はあのナイフな。前にも見た覚えがあるんだ」
「どういうこと?」
「あれな、いわゆるカスタムナイフなんだ。それも特殊オーダー、つまりは注文生産の一点物。あのデザインのナイフは世界を探してもあれ一本しかない。アラブの石油成金たちが息子の成人祝いに注文して作る類のものでな、あれは宝石で飾られていないから一本で二百万円ってところだ。で、俺は前にあれを見たことがあるのを思い出した。数年前だがな。あんたと同じような依頼だった。正規のルートで。つまり警察の仕事でってことだ」
「訳が分からないわ」
「うん、でな。俺なりにこっそりと調べてみた。ナイフの鑑定の裏をな。きちんとファイルになっていたよ。色々理由をつけて調書を手に入れるのには骨が折れたがな。これはあんたへの貸しだぜ」
「わかったから、何があったか教えて」
 鑑定課の男は教えてくれた。警察はあたしが考えていたほど無能じゃなかった。そしてあたしはすべての真実を知った。彼がカウンセラーにかかっていた理由も。
 あたしは欲しかったものを手に入れる唯一の方法をついに思いついた。


 彼が海外出張に出たタイミングが狙い目だった。その間、あたしは彼の邸宅に通った。
 土を掘るのがあれほどの重労働だとは思わなかった。三日の間奮闘した結果、ようやく墓をすべて暴くことができた。
 ここからは一度家に帰って準備を進めた。
 お風呂に入り、美容院に行き、念入りにお化粧してから、一番お気に入りの赤いドレスを着込む。そうよ、あたしは青なんて大っ嫌い。
 もう一度彼の家に向かい、彼が出張から帰ってくるのを待つ。いいわよね。彼秘蔵のワインを勝手に開けても。たぶん、これ一本で一千万円はする。
 予期しないあたしの姿を見て固まった彼の手を引き、お墓に向かった。
 墓が暴かれているのを見たときの彼の驚いた顔ったら。
「君は、きみは」彼は混乱の中でつぶやいた。
「そうよ、あたしは掘り返してみたの」
 あたしは背後の暴かれた墓を示してみせた。そこには今や大きな穴が開いている。
「なんてことだ」彼は頭を抱えた。
「よく見なさい」
 あたしは彼を墓へむけて押し出した。彼の方が体が大きいから大変だったけど。
「いやだ、墓の中には彼女が」
 彼は抵抗した。
「墓の中には何もないわ。その目でよくみなさい」
 絶句した彼の抵抗が弱った。あたしは彼に墓の中をみせた。
「中身はどこへ?」
「どこでもないわ。お墓は最初から空だったのよ」
「馬鹿を言うな。ない。無い。骨が無い。彼女の骨をどこにやった」
「どこにもやっていないわ」
 あたしは言った。そろそろ爆弾を落とす頃。
「あなたの奥さんなんていなかった。すべてあなたの空想だったのよ。独りぼっちのあなたは孤独に心を蝕まれ、奥さんがいるものと思い込んだ。そして奥さんの浮気という妄想に取りつかれて、存在しない奥さんを殺して埋めた。ありもしない骨を空っぽのお墓に埋めて」
「違う、ちがう、違う。彼女がいなかったなんて嘘だ」
「嘘じゃないわ。凶器のはずのナイフには血も何もついていなかった。奥さんの部屋にあるものもすべて新品。誰も使った形跡なんてなかった」
「ちがう・・」
「調べたわ。あなたの奥さんの戸籍も存在しない。そんな人物が存在した形跡なんてどこにもない」
「違う。そうだ、彼女の写真がある」
「これね」
 あたしは入手しておいたモデル雑誌のバックナンバーを見せた。
「あなたが奥さんの写真と言っているのはこのページから写しとったものよ」
 彼はくずれ落ちた。
「そんな。だとしたら僕の罪は。僕の罪は」
「罪なんか最初から無かったのよ。心の底から愛するために、永遠に愛するために、あなたは愛する者を殺したという罪を必要とした。そうすれば罰としていつまでも想像上の奥さんを愛することができるから」
 彼はしばらく沈黙していた。その精神の中で、自己欺瞞をしていた思考が解けていくのが見えるかのようだった。彼は自分の体を抱きしめた。青筋が額に浮かび、苦痛のうめき声が漏れる。認めたくない現実。認めてはならない現実。彼の精神はバラバラになりかけていた。
 以前に警察が彼の身辺を調べたときも今と同じ。きっと彼の友達の振りをしたライバルが警察に密告した。彼の奥さんが行方不明になっているって。
 警察は彼を調べ、そして真実を見つけた。彼を存在しない奥さん殺しの罪で捕まえる代わりに、彼にカウンセリングを勧めてから、すべてを調書に納め、忘れ去ることにした。そこまでが警察に期待されるすべてだったから。
 そのときも彼は真実に直面したはずだけど、あたしのように彼の身近な存在が真実を持って迫ったわけじゃなかったから、彼はすぐに自分の妄想に逃げ戻ってしまった。警察の捜査を受けたことは記憶から消し、この密やかな罪と罰の甘い世界に舞い戻ってしまったのだ。
 だけど今回は違う。警察の告発とあたしの告発では説得力が違う。彼のカウンセラーが慎重に解こうとしていた彼の妄想に、あたしは強烈な一撃でヒビを入れた。
 これで彼は想像上の奥さんへの愛を忘れられる。そしてあたしを愛するようになっていくだろう。だけどそれじゃ駄目。それだとごく普通の愛が手に入るだけ。

 あたしはそれでは満足できない。

「でも心配しないで」
 あたしは例のナイフを取り上げた。
「これからは空っぽのお墓に参る必要もない。偽の愛に自分を埋める必要もない」
 疑問を浮かべた彼の顔を覗き込み、深く口づけしてから続けた。
「今、本当の愛をあげるから、幻の代わりにあたしを愛して。そして覚えておいて。あたしが好きなのは赤色なの」
 彼が止める前にあたしはナイフを突き刺した。
 自分の胸に。
 赤いドレスの中にもっと濡れた赤い染みが広がる。
 彼が慌てた。あたしの胸からナイフを引き抜こうと手を伸ばす。その手の上にあたしの手を重ねて言った。
「あたしはこれで死ぬ。あなたに殺されて。その罪の償いとして、あなたはあたしを永遠に愛するの」
 あたしはすべての意思と力を込めて彼の手を掴み、その手に握られたナイフを自分の胸のもっと奥深くまで突き刺した。
 その先端はあたしの胸へとめり込み、確かにあたしの命の源へと届いた。愛を求めて激しく鼓動する、飢えたあたしの心臓へ。
 胸の中で暴れ狂う激しい痛み。そして最後には優しい暗闇があたしを訪れた。



 こうしてあたしは彼の死んだ唯一の奥さんになった。今度こそ、本物の。
 空っぽだったお墓にはあたしの亡骸が眠っている。今や真実となった凶器を胸に載せて。そんなあたしの左手には結婚指輪が嵌っている。
 ときたまさ迷い出て歩く彼の庭は真っ赤なバラや名も知らぬ赤色の花が満開だ。世話をする庭師も館の主の嗜好の変化には戸惑っていることだろう。
 あたしの写真が壁いっぱいに張られている居間には赤い花束がところ狭しと飾られている。
 そして毎日、彼はあたしのお墓を訪れて、大粒の涙を雨のように降らせてくれる。その左の手にはあたしとの結婚指輪が光っている。その指輪は二度と外されることはない。

 こうして罰は形作られ、罪は支払われた。
 いまのあたしは幸せだ。これまでにはないほどの深い深い愛に満たされて。