渡る世間は銘板

渡る世間は 星座

 昔から不思議に思っていたことがある。
 星座である。
 昔の人はどうやって星座を作ったのだろう?
 ただの点の塊である夜空に線を引き、動物や人や物に見立てた星座を形作る。それにどのような規則があり、どのような意図を持って線を引いたのか。そもそも星座の形からどうやってうみへび座やオリオン座のような実際の形あるものへと割り付けたのかもわからない。そういうものであると言われればそういうものなのだが、そういうもので良いのかどうか。

 富士山に登った。会社の同僚たちに誘われて、車に便乗させてもらって富士山の五合目からの登頂である。冬の富士は登山のプロでも死ぬ。夏の富士は子供でも登れる。
 ご来光を見るのが目的であるから夕方に登り始めて朝には頂上へというスケージュールであった。
 九合目半で疲れ切って、道の横の大岩の上に横になる。周囲では同じように倒れた人たちが横になっている。空気が薄い、酸素をくれ。
 ポテトチップスをリュックに入れて登った同僚もいたが、破裂寸前まで膨らんでいた。
 登山道の途中には山小屋がいくつも設えてあり、予約すると泊まれるようになっている。山小屋の表には必ず自動販売機があり半合登る度に同じ飲み物でも50円ずつ値段が上がる。
 登山客の中の子供の内、質の悪いのは下にいる登山客に石を投げている。それをまた横で見ている親は注意しない。いつか死人が出るだろう。親子揃って馬鹿三人、困ったものである。

 寝転がって目に入るのは夜空である。空気が薄く邪魔になる町の明かりがないので、星が綺麗だ。
 でも何かがおかしかった。
 線だ。すべての星と星の間にうっすらと光の線が走っている。
 そして理解した。星座が描かれた原因が。
 星座は実際に見たものを写したものだったのだ。
 筆記用具を持ってきていなかったので記録はしなかったが、それは目の前にあり、見てしまったからには信じざるを得なかった。


 後年、槍ヶ岳に登った。
 夜、山小屋から出て夜空を見上げる。やはり、星と星の間に薄い線が見えた。
 それは否定しようもなく、存在を歪めることもなく、ただそこにあった。


 星座に何の意味があるのかは分からない。だが、過去にも私と同じように星座を見た人間は居たのだろう。そんな人間の数が少ないのは、この能力が人生を生きるにおいては何の役にも立たないためだ。淘汰圧力から外れた能力。無意味な力。
 中世ヨーロッパに置いては、空に輝く星座を悪魔の本体と捉えている節がある。悪魔は夜に活動し、太陽が昇るとともに消え去る。そして悪魔の中でも一番強いルシファーつまり明けの明星(金星)はその光に抗して最後まで空に残る。
 東洋西洋問わず色々な呪法は星座の力を借りて行うものが多い。

 もし星座が悪魔そのものだとすれば、それが見えるということはどういうことなのか。
 それが判る日は果たして訪れるのだろうか?