足の毛布にかかる重みで目が覚めた。
最初は猫かと思った。死んだ愛猫がやっと化けて出て来てくれたのだと。だがすぐに違うと気づいた。毛布越しでも判る。これは猫ではない。小柄な人間の体重だ。気づけば金縛りにかかっている。
やれやれ。心の中で嘆息した。オカルト現象か。いや、死んだ猫が化けて出て来たとしてもやはりオカルト現象なのだが。
しかし、今回の金縛りは変だ。いつものようにかっちりしていない。体は動かないものの、何だか体がふわふわと不安定だ。
そうか、と思った。これが入眠時幻覚なのか。つまり金縛りではなく、自分はいま夢を見ている。
いや珍しい。今まで私は本物の金縛りにばかりやられてきたので、これは珍しい。
重みが膝の位置まで上がった。さきほどのは足首の先に人の体重があったが、今度は腹這いになっている。
待てよ、この姿勢は。
止めるまもなく、その何かが毛布の上を這い上がって来た。匍匐前進の態勢で、交互に出される肘の動きが判る。このままではすぐに、その中かと正面から顔を見つめ合うことになる。
夢の中でもそんなのは、真っ平御免こうむる。どうせきっと嫌なものを目にすることになるんだろう。綺麗なハダカのお姉ちゃんがこんにちわ、なんて、例え夢の中でもこのシチュエーションでは絶対にない。
体は依然として金縛りのままなので、反射的に術を起動した。
特技! 鬼の腕! 両腕バージョン!
脇の下から突き出した仮想上の腕が、左右から毛布ごとその何かを抱きしめる。鬼の腕の先端には鋭い爪が生えているのでそれで掴むと相手が傷ついてしまう。だから腕の内側で挟むようにした。礼儀知らずの相手にそこまでの配慮を払う、私って何て優しいのだろう。自分でも嫌になった。
するりと腕の下側に逃げられた。捕獲失敗。もう少し、タイミングを遅らせるべきだった。いや、次は逃げられないように爪を打ち込もう。
もう、面倒だな。だが、所詮は夢。暢気なものである。
しかし十年ぶりに術を起動したが問題なく動くものだな。と感心した。一度身につけた技は、衰えはしても消えはしないなあと考えながら、また眠りへとついた。
今度は夢を見た。
広い道路を人々がこちらに向けて歩いて来る。なぜかどの人もこちらの体にぶつかって来る。ひと際、どん、と強くぶつかられて目が覚めた。今のは夢の感触じゃない。何かが胸の上で飛び跳ねたのだ。
完全に目が覚めた。
ふわふわ感があったのでいつもの金縛りじゃないと判断したが、それは私の間違いだといまさらながらに気がついた。今までは固い床の上に布団を敷いての金縛りだ。だから背中はかっちりしている。今回はベッドの上。体の下にはコイルスプリング入りの分厚いマットレスがある。だから金縛りとは言えふわふわ感がある。毛布の上に乗った何かが体重をかけて暴れていたのだから、当然、マットレスは揺れる。
ああ、真正のオカルト現象だったのか。
迂闊な自分を叱った。
顔は判らないけど、小学校低学年程度の子供の体重だった。最初の鬼の腕の攻撃でびっくりしたのだろう。そのまま私が寝てしまったので、呆れて胸の上で飛び跳ねたのか。しかし完全金縛りを掛けられるのだから、それなりに霊格は高いはず。まったく、何者なんだ?
ここの所、寝ると台所のラップ音が激しくなるので、用心のために守護円の魔術を使って防御の結界を張って寝ていた。
昨夜は遅くまでゲームをやっていたので、守護円を張るのを忘れている。
そういうことか。一瞬でも防御に隙を作っては駄目だな。
そして何より、この部屋はやはり何か変だ。
後日譚:
見える友達がいる。この話の後、その人に会うと困った顔をされた。
「言わない方がいいとは思うんだけどね」と前置きされた。「後ろにがりがりに痩せた男の子が憑いているよ」
ああ、と合点がいった。なるほど、ネコにしては重過ぎる、人間にしては軽すぎる。
それにしても今の日本で餓死したような子供なんているものだろうか?
江戸時代に死んだとすればすでに二百年、これでは時が経ち過ぎている。それだけの年月を経て姿かたちを保っているとすれば、何らかの神格化を起こしている、つまりタタリ神となっていることになるが、それならば行動が弱すぎる。素人の術程度でどうこうできるはずがない。
いや、と思いなおした。今の時代でも子供の育児放棄をする親は多いのだ。虐待の果てに餓死した少年なのか。
特別に一週間分のお経をつけてその子に回向して、仏様へとつなぎをつけた。おそらくその子は仏教徒ではないから、御仏がその子を受け取るかどうかは賭けであったが、それきり、その子の話は聞かないので何とかなったのではないかと思う。あるいは、面白くない奴と思われて、その子が私への興味を失ったのかもしれない。
この辺り、霊視能力の無い自分には詳しくはわからない。
普段はこんなことはせず放置しておく。下手に優しさを見せると次から次へとやってきて収拾がつかなくなるためだ。
野良猫の餌付けとは異なり、人間を餌付けした場合はとても面倒なことになることは、京都の友人の例を見ても分かる通りだ。あの人の時は、毎晩二時になると幽霊の集団がやってきて過去語りの会をやってくれるようになった。見知らぬ者に無償の慈悲を見せるのは、時として命取りとなりかねない。
今回は少年の境遇に同情したこともある。縁あるならば多少はまあ、ね。