怪奇現象には随分と苦しめられた。
私は零感だから、見える人ほど苦しめられたわけではないが、それでも何故かそういう場面に遭う。技術者としてそれらのメカニズムに興味があることは認める。だが、別に自ら怖い目に遭いたいわけではない。
オカルトの危険性については承知しているから、決して深入りするつもりはない。オカルトに関わるのは、例えるならば、盲目の人間が電気のコンセントを弄るようなものだ。少しでも触れてはいけない所に触れれば、それで人生は終わる。私が関わった魔術はすべて自衛のために習い覚えたものばかりだ。それ以上、前に出るつもりは、今のところは無い。
だからこそ、心霊スポットに肝試しに行く連中を私は理解できない。ドスを持ってヤクザの事務所に殴り込みに行くほうがまだマシだということが判っていないのだろうか?
何よりも幽霊や妖怪の類は、壁が意味を持たないだけ、ヤクザよりも危険である。
世の人々は、最悪何かに取り憑かれた場合でも、霊能者を見つけてお祓いすれば何とかなると思っている節があるが、祟り神クラスになると、人間程度の霊能で何とかなる範囲を越えているのが大部分である。神の定義の一つは『荒ぶる暴虐』である。
あちらの世界には警察はいない。オカルトの世界での問題はすべて自分で解決するしかない。解決できない場合は、かなりの確率で死に至るか、人生が破綻する。
ここに挙げた実話怪談の数々が、少しでも参考になればと願う次第である。
実話怪談の締めくくりに、もし自分がオカルト的な何かにつけ狙われた場合の対処法を載せておこうと思う。
オカルトなんてあり得ない、との言葉を吐く向きは、どうぞこの章は読み飛ばしてくれて結構である。そんなものはあり得ない、統合失調症患者の戯言だ、などという意見は、いざそれらに悩まされている者にとってはクソの役にも立ちはしない。
(汚い言葉使いを失礼する。だが、それが私の偽ざる実感だ。何の手助けもくれないなら部屋の向こうで畳の目でも数えていろ)
いまでもときどき、ネット上で、怪奇現象に遭っています助けてください、という書き込みを見ると、やはり同じ目にあっている人がいるのだと判る。私が苦しんでいたとき、こうした情報がもし有ったならどれほど苦しみから救われただろうと思い、ここに対処法を記載しておく。少しでもお役に立てれば幸いである。
オカルトはとにかく金がかかる。まずは費用の安い順に対処を挙げたいと思う。
1)相手を説得する
意外とあの世の存在にも言葉は通じるものである。言葉は呪であり、多くの人間がごく自然に使える魔術の一つであるから。
三十年前のことだが、当時アメリカ最高のエクソシトは、霊の姿がまったく見えないし、霊の声がまったく聞こえないというただのおばさんだった。
その頃はローマ教会は悪魔の存在を公式には認めておらず、そのため、教会公式のエクソシストはどこにも存在していなかった。その当時はキリスト教異端派のエクソシストが裏から依頼を受けて活動していたのだが、この女性はそれともまったく違い、何の儀式も術も使っていなかった。
ではどうやって彼女は悪霊を祓っていたのか?
説得するのである。問題が起きている空き家などにそのまま移り住み、何も無い空間に向けて、二か月も三か月も毎日説得するのである。ただそれだけで、幽霊騒ぎは収まる。日本のどこかで起きた幽霊アパート騒動とは大違いである。
ただし、これはその人物の芯が試されるような行為でもある。費用が安いからという理由のみでやるべきではない。
心の奥底から出た真摯な言葉でなくては、相手を言い負かすことはできても納得させることはできはしない。
一方、これは説得とは逆の行為だが、徹底的に無視する、という手もある。お前を相手にしないということを態度で見せる。これも説得の一種である。
盛り塩や、ネットで言われているファブリーズなどはボディランゲージだと思えばよい。相手に居て欲しくないという一種の意志表示である。しかしいきなりこれらをやると逆に相手を激怒させて粘着されることがあるので、私はお勧めしない。
2)神社もしくは寺院に行く。
きちんとした神社などは、神を迎える聖域として結界が張られていることが多い。その中に人間は足を踏み入れることができるが、亡霊の類は入ることができない。
聖域に入った時点で、憑いているものは結界の外へ剥ぎ落される。気分で取り憑いていたようなものは、このとき、次に来る人間に取り憑き替える。これを通り魔と呼ぶ。本来の語義としてである。
一度神社の中に入ったら、きちんと祈願してからお守りを買うことを進める。
お守りの種類は家内安全など。間違っても商売繁盛や恋愛成就は買わないこと。意味がないから。
お守りを持っていれば帰りにまた取り憑かれる心配は少ない。しばらくの間は。
さて、このような理由から、神社やお寺に参るときは、午後三時以降は厳禁である。良いカモが見つからなかった連中がもう誰でもいいや、で取り憑くケースがあるからである。穢れを落としに行って逆に拾って来たのでは何のために参拝したのか分からないというものである。
知り合いに神社仏閣巡りを趣味で始めた人間を二人知っているが、どちらも二年以内に発狂した。それぐらい適当な理由での聖地巡礼は危険である。
あまり知られていないことだが、霊場を次々に巡回するお遍路さんたちは普通は集団で動き、集団一つにつき一人、先達と呼ばれる修行者が付くのが本式である。霊場に参った後に変なものにやられないように面倒を見るのが役目であり、決して素人が自分だけで回るようなものではない。
暇話休題。
一口に神社と言っても、霊格の違いがある。まず都会にある神社などでも、正月のお賽銭目当てが一目で判る商売第一の神社にはこれらの結界が無いので役に立たない。こういった神社は足を踏み入れてみると、神気のかけらもないので零感の人でもすぐわかる。肌にピンと来る緊張感が無いのだ。ホームページでその神社の説明を見ると、薄々と判る。神社で祭る神を、何とか商売繁盛に結び付けようとしているところにはあまり期待ができないものなのだ。
正月に参拝客が多いので大きな賽銭箱を入口に配置する神社などはその最たるものだ。本殿遠く、お賽銭だけを入れて帰れとは、まったく何たる商売根性。あきれ果てたものである。
神社やお寺が祭る神仏には基本的に得手不得手がある。例えば、スサノオ尊やタチカラ尊、不動明王尊などは武闘派であり、怖い神様なので、お祓いの効果は高い。一方、商売繁盛の神はお金には強いが、お祓いには向かない。
この辺りを見極める必要がある。
なお、神社参りなどで問題が解決した場合は、必ずお礼参りをしないと行けない。正月にお賽銭を百円も奮発すればよいだろうなどとは考えてはいけない。
神様だって慈善事業をしているわけではないのだから。
この辺り、自分を神様の立場に置き換えてみれば理解できる。
あなたが神様で、ちょっとした気まぐれから今まで信心一つしたことのない人を助けてみたとする。助けて貰った人が来てこう言う。
「おれを助けたからって好い気になるなよ。ほれ、賽銭だ」
そう言って、百円をあなたの顔に叩きつける。
あなたなら、この不信心者をどうする?
私が神様なら、その者の両手両足を叩き折り、家族を皆殺しして、それから病院のベッドでうんうん唸っているあなたを見ながらこう考える。さて、こいつをこれからどんなひどい目に遭わせよう。
何ものよりも強いから神様をやっている。そういうことだ。
ところで神社に行ったとき帰りにまた取り憑かれるケースは、その相手が通り魔ではないことを意味する。つまり明らかにあなたをターゲットとしている。あなたの顔や匂いを覚えて追跡するのだ。こういったときは次以降の対処を必要とする。
3)護身法を覚える
西洋東洋を問わず、護身のための魔術がある。
西洋ではタリスマンやアミュレット、東洋では九字護身法などさまざまなものがある。
これが術理さえきちんと押さえれば意外と効く。
一番簡単で、なおかつ奥深いのが西洋魔術の守護円の術である。
寝るときに、体の周りを青と金の炎で縁取られた円陣で囲む、という観相である。これをやるとほぼ百パーセントの確率で金縛りを防ぐことができる。
ただし、寝ている間ずうっと、この炎の陣を頭の片隅で捉え続ける必要がある。そう言った意味では強い集中力と絶え間ない訓練を必要とする。そしてもう一つ、人間はものを忘れるという欠点がある。つまり大事なときにこの守護円を張り忘れるのである。おまけに守護円を張る前に先に中に入りこまれると、一緒に閉じ込めてしまうので守護の意味が無くなってしまう。
やり方は簡単だが運用が難しいのである。まあ、大概の魔術がそうなのであるが。
4)お札を買って来る
それも一万円単位のきちんと御祈祷したお札である。このクラスになると神主さんがいた場合はお祓いの儀式などもして貰えることがある。
買ってしばらくの間は、それなりに守って貰えることになる。
ただ神社仏閣に行くのとお札を買うことの違いは、神仏の注意が自分に向くか向かないかの違いである。自分をターゲットとして憑かれた場合は、きちんと祈祷を受けて神仏との繋ぎを作り、注意を向けてもらう必要がある。ストーカーに狙われたときに警察に相談してパトロールを増やしてもらうのと同じと考えればよい。
5)霊能者を見つける
お祓いをやっている霊能者を見つける。口で言うのは簡単だが難事である。まず霊視ができる人は意外と多い(十人に一人くらい。大概はその事実を隠している)が、その中でお祓いができる者は非常に少ない。見えるだけ、聞こえるだけ、嗅げるだけが基本である。
また自称霊能者の九割は偽物、詐欺師である。オカルトは金になる。ちょっと演技をすれば驚くほどのお金になる。そう考えた連中がなだれ込む世界である。ただし、それもそう長くは続かない。じきに本物の祟り神という地雷を踏んで、消えてゆくからである。
残りの一割の内、九割は心の病である。そう考えると、百人に一人、ぐらいしか本物はいない。そしてその本物の内、ごく一部だけがお祓いの術を使える。
(逆に中途半端に霊能が開いたために心の病として扱われている者も多いと思う)
本物の祓い師はレアな存在なのである。
さらにそれら本物の内、善意でやっている人間はもっと減ることになる。まさに悪魔に魂を売った連中が混ざっているのである。これらの特徴は、一見問題が解決したように見えて、次々に別の問題が持ち上がることである。お祓いの後、やたら特定の箇所のケガが増えたり、事件に巻き込まれるようになる。ストーカーがいなくなったかわりに、ボディガードが強請り集りを始めるようなものだ。
結局のところ、こうなると口コミで善い人を探すしかないのだが、気をつけないとカルト集団の勧誘の餌食とされるので、注意が必要である。
また、通り魔と呼ばれる相手を選ばないような存在に対しては、偽霊能者をそのままぶつけるという荒業もある。要はエサを与えれば片が付くのである。ただし、火に油を注ぐ結果もあり得るので、やる場合は自己責任でどうぞ。
6)宗教団体に所属する
それなりの規模と評判の良い宗教団体に所属するという手がある。
結局のところ、その目的は、神仏に帰依することである。つまり神仏の弟子として入門するということである。
いじめられっ子が空手道場に入門すると、いじめっ子は手を出さなくなる。本人が強くなくても、新しくできた仲間の一員となるだけで、報復を恐れて手を出さなくなる。これである。
ただし、その後の一生をその神仏に捧げることになる。自分の都合だけで出たり入ったりはできないという欠点がある。神仏だって慈善事業はしないのだから。
7)諦める
人間、諦めが肝心である。
黒天使の項で書いているが、抵抗しなければあの苦痛は一日、いや、最初の五分で済んでいたのである。しかし、抵抗を止めたとき自分がどうなるのか判らない状態でそれが選べるかと言えば、それは無理なので、これを最後の手段とする。
君の苦しみは判る。代わってやりたいとは思わないが。
誰も頼れない。
ゆえに、雄々しく立ち向かえ。