人間わずか五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
ひとたびこの世に生を享け、滅せぬもののあるべきか
安土城の天守閣にて織田前右府信長は物思いに耽っていた。
すでに天正十年になっている。ひい、ふう、みい、よう。何度数えても四十八になっていた。
日の本の国は我が手に落ちた。もはやどう転んでも自分の支配が覆ることは無い。それは明らかであった。後は残りの勢力を臣従させれば終わりだ。もはや面と向かって自分に反しようという勢力は存在しない。
ここ天守閣から見える城下、そしてその向こうに広がるすべての景色、そしてここからは見えない日の本のすべてまでもが、自分のものであった。
天下布武は成ったのだ。
少なくともその一部は。そう信長は自嘲した。それは今まで誰にも見せたことのない表情であった。
信長は名品を飾ってある壁に向かった。
壁一面に設えさせた大きな棚一杯に名品が所狭しと並べられている。その多くは箱の中に大事に納まっているが、いくつかは剥き出しのまま置かれている。
ふと手を伸ばし、目の前に並べられた名品の内から曜変天目茶碗を取り上げる。その表面には黒を基調にした景色の中に煌めく輝点がいくつも浮かび上がっている。まるで夜空に浮かぶ星々の群れだ。
己の手の中の宇宙をしばし信長は楽しんだ。
思えば自分の人生は危機の連続であった。
尾張名古屋は城で持つなどと不名誉な歌で貶された弱兵の国のしかも内戦の最中に生れた。母親は彼を疎い、弟可愛さの余りに自分を憎んだ。尾張の大うつけと呼ばれるほどの奇行を繰り返さねば、元服の前に暗殺されていただろう。
うつけなれば元服前に廃嫡すれば良かろう。そう相手に思わせたのだ。
うつけどころか才気溢れたやり手だと知れたときには十分に戦えるだけの軍勢を手に入れていた。そうと知ったときの母と弟の顔と来たら。
思わず信長は笑みをこぼした。愚か者どもめ。そうつぶやいた。
あれも酷かった。手の中で天目茶碗を回しながら信長は過去に想いを馳せた。
今川義元の侵攻である。尾張を統一した直後だ。まだ他国に対応できるだけの国力は備わっておらず、信長側の負けは確実視されていた。
南蛮貿易でつなぎをつけたイエズス会との交流が無ければ、そこで終わっていただろう。
密かに手に入れておいた異国の馬と南部馬の交配でできた巨大馬たち。日本の馬より遥かにたくましいその馬に馬鎧をつけ、今川軍の侵攻地点である桶狭間に埋めた。文字通り地面に穴を掘り、馬と人をまるごと埋めたのだ。その数、わずかに十騎。
雨が降ったのは幸運だった。今川の旗本どもの多くは雨を避けて天幕へと入っていたからだ。合図と共に飛び出した重装騎兵たちは今川の本陣の警備を蹴散らしながら突入した。
真っ黒に染めた南蛮馬鎧にこれも漆黒の南蛮鎧に身を固めた武者たち。馬に装着したのはこれも南蛮の騎士たちが使う巨大な突進槍だ。それを前に構えたまま重騎兵の突撃を行わせた。この重装騎兵が突進できるのはわずかに五十を数える間だけ。それだけでいかに丈夫な巨大馬といえども心臓が破裂する。
だがそれで充分であった。
足軽も馬回りもこの重装騎兵の前には足止めにすらならない。立ちはだかる相手を弾き飛ばしながら信長の騎兵は突進した。
周囲で巻き起こる大混乱の中で今川の首を取り、その場で鎧を脱ぎせっかくの馬も捨てて、伝令に化けた一騎だけが脱出できた。小脇に今川義元の首を抱えて。
それで勝利は信長の手に落ちた。
もっとも馬の育成に大変な費えがかかったのでそれ以降は二度とできなかった技だ。
信長は手の中の天目茶碗をひっくり返した。高台を眺め、富士の山に見立てる。こうなれば曜変天目といえどもただの茶碗と同じだ。
通貨制度の普及も大変だった。
尾張の特徴は貿易港ということだ。親子三代で蓄えた莫大な名品や金銀財宝は織田家の大きな利点だったが、それだけでは使いようのないものであった。
百姓が考える銭というのは宋の銅銭だ。金銀では米は買えぬ。どうしても両替商を通して交換することになるが、そうなると本来の価値の半分にもならない上に、両替商に頭が上がらなくなる。生殺与奪の権利を両替商に握られていて、天下布武も何もないものだ。
だから関税を廃止し楽市楽座を起こした。大きい商人から小さい商人まですべてを集めて、尾張という名の下に支配した。
次に手をつけたのは通貨の度量衡の制定だ。決まった量の金は決まった量の銀に交換でき、さらには決まった量の銅銭と交換できる。それさえ確立すれば両替商を通さずに済む。普通の百姓でも数さえ数えられればそれができるのだ。
これにより両替商の権力は消失するはずだ。
そのためには信用できる通貨を作るための大量の金銀が要る。今度の遠征が成ればその準備も整う。
六つ亀のヤツめ。試しに作らせた金の大判を見て目を輝かせておった。あやつにはこの大判の意味は分かるまい。茶室の中を金の板で埋めそうなぐらいあ奴は愚かだからな。
それができれば配下の武将たちに領地の代わりに金銀で支払えるようになる。つまりは下剋上の時代の終わりだ。儂に逆らえばその瞬間からその武将は無一文になる。イエズス会の神父から聞いた西洋の国のやり方だ。絶対権力と呼んでおったな。
信長は曜変天目茶碗の表面を撫で、その感触を楽しんだ。この世に五本の指の数ほども無い名品だ。この手の中に一国に匹敵する財宝がある。
次にやったのは茶の湯の作法の普及と、茶の湯で使う名品の普及。つまりは武家の間に数奇道という名の審美眼を持ち込むことだった。
新しい価値の創出。米と金にしか興味の無いガサツな武家の間に、美術品というものを持ち込んだのだ。茶の湯を作法として取り入れれば、そこは自分が所有する名品を自慢する場となる。武士というものは誰もが自尊心の塊だ。その戦いは熾烈なものとなり、結果として名品は本来以上の価値を持つ。今までは数奇者の間でしか意味がなかった名品が悉く大量の金と同じ価値を持つようになった。
挙句の果ては領地の代わりに茶器を欲しがる馬鹿まで出る始末だ。
大名に取っては領地の問題は頭が痛い。手柄を立てた部下には領地を与えないといけない。だが領地を与えれば与えるほど、力をつけた部下は下剋上を始める。それが領地の代わりに名品を与えるだけで済むならば反乱の危険はなくなる。
信長は笑った。
こんな茶を飲むことにしか役に立たないものに一国の価値などあるものか。この世で本当の力とは領地とそこから上がる米なのに。そしてそれが支える兵なのに。
信長は両手に持った曜変天目茶碗を高く掲げると床に叩きつけた。衝撃で茶碗が粉々に砕ける。音に驚いて階下で待っていた侍従が何事かと腰の刀に手をかけて飛び込んでくる。
侍従は足元に転がる曜変天目茶碗の欠片に驚き目を見張った。
「殿。これは何と」
床に這いつくばると欠片を集め始めた。
「ただちに継ぎに出します」
割れた陶器は金で継ぐことができる。継いだ陶器は割れ方継ぎ方によっては元の物よりも価値が上がることもある。
それを見ながら信長は言いつけた。
「破片をすべて拾い集め、元が分からぬようになるまで砕け。そしてどこか人に決して見つからぬ場所に埋めよ。よいか、このことを誰に知られてもならぬ。また継ぐこもならぬ」
信長の命に従い、侍従は破片をすべて拾い集めると階段を降りていった。
あれはきっと、儂が何かの呪法を行ったと思うであろうな。信長は嘲った。
愚か者め。
ずらりと並ぶ天下の名品の前に信長は座り込んだ。
こうして資金ができた時点で行った兵農分離は良かったな。思わずにやけてしまう。
専門兵は実に役に立つ。最初から強いヤツらだけを集めて召し抱えることができる。それに専門兵は農閑期以外にも動けるのがいい。田植えの時期、稲刈りの時期に敵国に戦をしかければその年の敵国の収入は無くなる。これを毎年やればどんな強国でも最後には滅ぶ。
それが分かっているから織田勢とはどこも対立したがらない。実に強力な策なのである。
問題は専門兵は農民兵の三倍の費えが要ること。金だけは腐るほどあった尾張にはそれができたのが大きい。
鉄甲船もよかった。沿岸から離れることのできぬ船ならぬ不細工な船ではあったが、一揆衆を倒すのには絶大な威力があった。
鉄砲を揃えたのもよかった。
イエズス会から知った古代ローマとやらに見習って工兵部隊を作ったのも役に立った。
一部危ない局面もあったが、勢力は順調に拡大した。
どうしてこんな簡単なことが誰にもできなかったのか、信長は心底不思議に思った。自分には当然に思える考えが誰にも理解されないのはただただ謎であった。儂が世界を見ているようには人々は世界を見ることができない。せいぜいが自分の目の届く範囲だけが彼らの知る世界であった。
まさに凡庸な者たちよ。
すべてが自分の考えた通りに進むのは面白いものであった。というより自分以外の誰も世界が流れる先を見通せないのは不思議であった。すべては合理を突き詰めることで到達できるものなのに、どうして自分以外の誰もできないのか。
この後はまず新しい宗教の創出だ。なに、難しくはない。誰も祭らぬ神仏を持ち出してこう言えばよい。この神仏こそが我を守護してきた本当の神仏であると。それだけで民の大半はこの新しい神仏の信徒となるであろう。そしてこの神仏の唯一の現出が儂ということになる。そうなれば二度と宗教を名乗る無頼の者ともに悩まされることはなくなる。
そして日の本は完全に儂のものとなる。
だがしかし、と信長は背後を見た。そこにはイエズス会が持ち込んだ地球儀が飾ってある。近づいて、その重い球体を回した。これが世界だ。その世界の中で、日の本の国の何と小さいことか。
最初にこの地球儀を見せられたときの驚き。天下布武の完成までの道筋が見えたときに、その天下とやらが如何に小さいかを見せられたのだ。
そしてイエズス会から聞いた世界の情勢はまた驚くものであった。今の日の本の武力を持ってすれば、中国も西洋諸国も鎧袖一触できることを知ったのだ。
だが。だが、である。
この日の本という小さな島国一つ、ようやく手に入れただけというのに、儂の寿命は付きかけようとしている。
信長自身は厳密なまでの現実主義者であった。自分がどこまでも長生きするとは露とも思いはしなかった。
権力者の末路というものは、不老不死の薬を求めるのに費やされる。秦の始皇帝もそうであったし、数多の国王たちもそれに近いものを求めた。中国の仙丹、西洋錬金術の賢者の石、エジプトのミイラ術、さらに言えば、イエズス会の説く救世主の奇跡の復活もそうだ。
だが信長は決してそれらの存在を信じはしなかった。
しょせんは夢よ、幻よ。それが口癖だった。
では、どうするか。地球儀を回しながら考える。もっとも現実的な解決案は、自分の分身たる子どもたちに託するという手段であった。
天下布武を。
世界征服を。
世界を相手の天下布武。その道筋もはっきりと見えた。
中国に出るためにはまず朝鮮に道をつけなくてはならない。中国に直接航路を作るのは無理だ。往復の度に四隻に一隻が沈むようでは補給路としては成立しない。だからこそまずは朝鮮から中国に至る道が必要になる。そのためにはまず朝鮮を経由しての中国との貿易が必要になる。そうすれば道を整備できるし、軍隊のための食料の生産地を作ることができる。貿易路の警備名目で兵を配備することもできる。
中国へ進軍ができるようになるまで後二十年はかかる。中国全土を手にいれて西欧に向かうまでもう二十年。すべてを勘案すると世界を相手の天下布武まで百年が必要になる。
どうやっても、後二世代はかかる。下手すれば五世代だ。
後百年。たった百年。この身が持てば。我が志を継いでくれる者が居れば。
だがそれは叶わぬ夢であった。
息子たちはいずれもボンクラであった。いつかは中国を攻めないといけないと言ったら、あんな先進国は攻められませんと腰を抜かしおった。
儂は自分がそうと信じる考えに従って前に進んできた。これが常識と言われたものをそのまま信じることはしなかった。間違っているものは誰が正しいと主張しようが間違っているのだ。だからこそ東洋西洋問わずにあらゆる知識を覚え、良いと思うものは取り込んできた。
その儂を息子は見習うどころか、時代に取り込まれた見事な凡人となった。
それがどれほどの失望であったか。
では息子たちは諦めて、配下の誰かにこの夢を託すのか。
だがそれも叶わない。配下の者たちもボンクラぶりは息子たちと同じぐらいなのだから。
藤吉郎はどうだ?
あれは駄目だ。根本的な所で物事を理解しておらぬ。その証拠に茶の湯に理解があるような顔をしておりながら名品というものが一切分かっておらぬ。あやつならどこぞの便所壺を天下の名品などと申して大事にしかねない。
朝鮮貿易を朝鮮征服と勘違いしていきなり攻めて、大変なことにしてしまうのだろうな。
明智光秀はどうだ?
あれも駄目だ。キンカン頭の中には公家としての生き様が詰まりすぎている。天下を取った後は天皇辺りに日本を献上しかねない。
柴田は。前田は。どちらも問題外だ。一方は槍で、一方はソロバンで天下を扱いかねない。次の代には日の本はふたたび戦国時代に後戻りだ。
では他の大名連中ならばどうなる?
家康はどうだ?
駄目だ。あの臆病者なら日の本を手に入れた後に鎖国などと言い出しかねん。閉じこもるべきときに出てしまうような輩は、出るべきときに閉じこもるものなのだ。
では毛利はどうだ?
あれも駄目だ。あれは山の民だ。中国や西洋のような平地には決して出たがらない。守りには向くが攻めには向かない男だ。
上杉は、伊達は、島津は。どれも駄目だ。狭い日の本の国の考えにどっぷりと浸かってしまっている。いずれも凡人中では抜きんでているのかもしれぬが、それでも凡人であることには変わりない。
この日の本の国に、自分と同じ視点で世界を見る者がただの一人もいない。自分にはごく普通に見える道を見ることができる者が誰もいない。
考えれば考えるほど、天下布武はここで終わっているという結論しか出てこない。
時代を先駆けたたった一人の天才の道はここで終わるのだ。凡才の群れに押しつぶされて誰にも継がれることもなく消え果るのだ。
下天は夢か、幻か。
かくなる上は派手に散ろうではないか。
信長は顎を撫でた。
本能寺辺りで名品の閲覧会を行おう。それを名目にして日本中から有力者を集めよう。それで下剋上の舞台は整う。
わざと護衛を減らせば、配下の誰かが儂に対する謀反を企むであろう。それが今の時代というものだ。
自分が今までやったように攻められ燃やされ灰となる。因果が応報するならばそれはまた正しいのだ。
儂が死んだ後にこの城を誰の手にも渡しはすまい。乱破どもに命じておいて、儂が死んだ後は跡かたなく焼き払わせよう。内側から火薬と油を使えばさしものこの丈夫な城も綺麗に焼け落ちるであろう。
さてさて、いったい誰がこの天下の次の主となるのだろうか。
信長は静かに笑った。