古縁流始末記銘板

異形なるものの渇望

1)

 古縁流第八代伝承者山ノ内藤太は全国を武者修行で渡り歩く珍しい伝承者であった。
 齢三十にして次の皆伝伝承者を育て上げた後、これで責務は果たしたとばかりに弟子たちを置いて旅に出たのだ。

 師匠に当たる第七代伝承者は初弟子の藤太に免許皆伝を与えた後に恐らくは巳の王と戦って死んでいた。そのため次の伝承者を生み出すまでの十年の間、藤太は自由に生きることができなくなった。この百五十年継承されてきた最強の剣術を自分の代で絶やすわけにはいかなかったのだ。
 ただひたすら素質のある者を見つけては弟子に誘い修行を施す。だが古縁流の修行は度を越して厳しい。免許皆伝に達する前に体を壊して辞める者が続出した。
 その焦燥感の中で過ごす藤太の十年間であった。
 それが今や自由になった。藤太に取ってはまさに天にも昇る心地であった。
「それがしは自由なり!」
 旅に出る初日、藤太が叫んだ言葉がこれであった。

 抑え込まれた分、外への要求は強くなる。
 藤太の旅は表向きは日本全国に隠れ潜む十二王を探すという理由であったが、その実は古縁流の縁起はそれほど気にはしておらず、ただ外の世界を広く見てみたいというのが本当の理由であった。

 行く先々で半端仕事を引き受けて路銀を作る気まま旅である。宿場のヤクザ同士の喧嘩の助っ人をやったこともあるし、賭場の用心棒を務めたこともある。人を殺せないわけではなく、またその力も十分以上に備えてはいたが、避けることができる場合は殺しはしなかった。大概は相手の腕や足を折って後は成り行きに任せる。そういうやり方である。
 世間の激流の中を頻繁に潜って生きている割には、どことなく人生の汚れには染まらぬ男であった。
 諸国を歩き回り世界の広さに感動した。まだこの時代の人々は異国の存在は知ってはいてもその広さを実感することはない。藤太にとってもそれは同じで、二本の足で歩く限りは日ノ本の国はまだまだ人跡未踏の地ばかりの広大な遊び場であった。
 京都では日本中の兵が集まっての大戦となっているとの話があった。
 応仁の乱である。東軍管領細川勝元と西軍山名宗全ががっぷりと二つに組んでの殺し合いである。
 藤太の時代には古縁流は卑怯との言葉は存在しなかった。剣は強さだけを尊び、負けることの方が悪い時代であった。だがそれでも藤太はこの戦に加わる気はなかった。大勢が加わっての殺し合いというのが性に合わなかったし、もしや戦功を立てて出世でもしてしまおうものならば、またあの自由の無い窮屈な生活が始まってしまう。
 二度と何かに縛られるのだけは御免だというのが藤太の考えであった。



 熊野の御山を一度見てみるかとの気まぐれから足を向けてみたとき、その噂が耳に入った。

 山中にて異形のものあり。

 色々訪ね回り、その噂の元へとたどり着く。酒と金の力でその噂の真偽を確かめることができた。その炭焼きの男は熊野の奥深い山奥にて、人と同じ大きさの鶏を見たというのだ。
 酉の王。そう直感した。
 こうなると十二王との闘いに興味がない藤太でも捨ててはおけぬ。いくつかの品を買いそろえると、恐れることなく噂の山へと足を踏み入れた。

 十二王はどれも他にはない神通力を持っている。それも人間では到底手に入れることのできぬほど強い神通力であると伝えられていた。残念なことに古縁流の古伝書にはそれらがどんな神通力かは書かれてはいなかった。
 寅の王は一番先に退治された十二王で、その神通力は確認されていない。そして巳の王と辰の王は挑んだ伝承者がすべて死んでいるので神通力の内容は分からない。その他の王たちも曖昧な記述はあるもののいずれも神通力は明確ではない。ただ一つ、卯の王だけは『縮地』という名前の神通力だと判明しており、決して捕らえることも殺すこともできぬ故に迂闊に挑んではならぬとだけ言い伝えられている。
 酉に至っては遭遇の記録さえない。つまりはこれが初めての手合わせとなる。
 藤太は弐の皆伝者だ。もう少し修行が進めば参の皆伝までには到達できるだろう。だが終の皆伝に進むことはできぬだろうと思っていた。そもそも師匠から教えられた終の皆伝技はどれもただの嘘だと思っていた。いかに古縁流の技が常人の域を越えていようと、大岩を真っ二つに切り裂くなど人間にできるはずもない。きっとどの流派にもある宣伝のための大法螺であろうと藤太は断じていた。

 一足踏み込むたびに熊野の山の緑は濃さを増す。山の気が所々に溢れて渦を巻き、なるほどこれは大霊山と呼ばれるだけはある。藤太はそう思った。
 背中に背負いたるは戦国大太刀。重さは二貫目以上あり、長さは四尺五寸。太く、重く、何があっても折れたりはしない。鍛えられていない人間が振ればそれだけで肩が外れる代物だ。
 腰に佩ける長さではないので運ぶときには背中に括り付け、使う前には一度下してから苦労して鞘から引き抜くという厄介な代物である。この大太刀を目にも止まらぬ速さで振り回すのであるから、古縁流の伝承者はすでに人間の域を越えている。
 腰に巻いた荷物の中には古縁流の装備一式が入っている。山蛾の糸に金属製の油壺、忍者食に指南盤。各種の薬に加えて毒薬。さらには煮炊きや薬作りに使う小鍋。剣術修行者には不要なこれらの装備はすべて十二王との闘いが剣の技だけでは済まないことを示している。

 藤太が山駆けする姿は知らぬ者が見れば天狗と思えただろう。最初から普通の道は辿らない。岩が露出した山肌を駆け、木々の幹を蹴りながら跳び、崖はそのまま跳び越えた。手の中に握り込んだ山蛾の糸と手裏剣をうまく使い、立ち木さえあれば道無き場所を道とすることができる。
 道々、見つけた薬草や食べられる野草や木の実を当たり前のように集める。古縁流の伝承者は深山に入るのに米を一握りだけ持っていく。後はすべて現地調達で間に合ってしまう。

 頃合いやよしと見ると、林の中に小さく開けた場所を見つけ、火を焚いた。途中で見つけた狼の糞と煙硝草を投げ込むと、炎は勢いよく燃え、真っすぐな狼煙が立ち上った。
 そのまましばらく待つ。やがて頭上から声がかかった。
「我らに用か?」
 現れたのは熊野の修験者だ。相当に年季の入った薄汚れた装束を着ている。
「この辺りで異形を見たという噂がある」挨拶も無しに藤太が言った。
「異形? 熊野は聖地。異形など腐るほどいるわ」とにべもない返事。
「探しておるのは鶏の異形」
「それなら知っておる。代わりに何をくれる?」
 藤太の手が動いた。ここまで戦国大太刀と一緒に持って来た酒瓶を投げる。
 修験者は空中でそれを掴むと、素早く瓶の栓を抜き、一口飲んだ。
「むう。良い酒だ」
「そうだろう。かなりの値がしたからな」
「鳥の異形は北東の方向。尾根を三つ越えた所で見た者がおる」
「かたじけない。助かる」
「どうするつもりだ?」
「戦う。そして殺す」と藤太。隠すつもりも嘘を吐くつもりもない。
「別に止めるつもりはないが、害を成したとは聞かぬ異形ぞ」
「因縁があっての」
「そうか。因縁があるのか。ならば仕方がない」
 その言葉と共に修験者は消えた。
 藤太の鋭敏な感覚に捕らえられることもなく、突然に現れ消える。今の修験者の形をしたものも恐らくは人間ではあるまい。藤太はそう思った。ここは聖地だ。聖地にはさまざまな異形が棲む。
 焚火を使い手早く食事を取ると、藤太は木の下に横になった。服を裏返しにするとそこには岩肌に似せた模様が入っている。それを頭から被るとたちまちにして動かぬ岩の一つとなる。
 古縁流はその技の中に多くの忍術を取り入れている。これぞ石化けの術。石に似せた布を被り、すべての気配を断ち動かぬ石となる。こうなれば狼でさえそこに藤太がいるとは気づかない。



 朝日が昇った。
 藤太は言われた方角に向かった。尾根を二つ越えた所で隠身へと入る。木々に身を隠し、地面を這うように進む。風が吹くのに合わせて、草木のそよぎに隠れて動く。
 十二王の厄介なところは神通力だ。それは人知を越える力で、古縁流の剣技でも届かない高みにある力だ。でなければ歴代の伝承者が戦いに破れるはずもない。十二王相手に戦い生き延びるためにはまず相手の力を正確に見極める必要がある。
 そのための隠身の術だ。
 教えられた場所を探し回った。風となって、雨の雫となって、舞い散る木の葉となって。自然の理に一切の揺らぎを与えることなく、ひそやかな影となって辺りを探る。
 そして見つけた。異形の存在を。

 それは人間並みの大きさの鶏だった。
 最初はその大きすぎる鶏の姿に目がおかしくなったのかと思った。本来の大きさと異なるものを見ると遠近感が狂うのだ。
 そうか。十二王は普通の動物よりも大きいのだな。そう納得した。これが我ら古縁流の宿敵の一匹とは驚くべきことだ。いや、一柱と呼ぶべきか。ただの動物ではない。神に近い存在なのだ。故にその力を神に通じる力、神通力と呼ぶ。
 じりじりと近づき、文字通り草葉の陰から酉の王をじっくりと見つめた。
 白い羽を基調として、全身所々に金色の羽が混ざっている。朝日を浴びて羽毛が煌めくと、まるで何かの美しい飾り物のようだ。頭の上では真っ赤なそして大きな鶏冠がまるで帽子のようにその存在を誇示している。
 鶏冠がある以上、少なくとも酉の女王ではないなと断じた。
 酉の王は大岩の上にうずくまって目を瞑っている。最初は寝ているのかと思ったが、それが実は半眼であることに気づいた。瞼を半分だけ閉じてこちらを見ているようでもあり、何も見ていないようでもある。しばらく観察して藤太ははっと気が付いた。
 これはもしや座禅を組んでいるのか。鳥の身で。
 酉の王の背後には粗末な小屋が建っている。まさか鳥が小屋を建てるとも思えぬので、元々あった炭焼き小屋か何かに棲みついているのであろうとは思った。
 そのまま時を数える。どのぐらい経っただろうか。いきなり酉の王の眼が開くと、立ち上がった。蹴爪の生えた足が顕わになると、地面を跳ねるように移動し始めた。藤太はそっとその後をつけた。
 酉の王は谷へと降りていく。その先にあるのは水流の飛沫を上げる細い滝であった。躊躇うことなく酉の王はその滝の下へと進むと、頭から突っ込んだ。全身の羽という羽に水が浸み込む。
 まさか。藤太は目を見張った。
 これは滝行のつもりか?


2)

 藤太が酉の王を見張り始めてから三日が経過した。次第に酉の王の行動が顕わになっていく。
 朝起きると餌を探し、それから鳥式の座禅を組む。それが済むと滝行を行い、戻って来ると何か経のようなものを延々と唱え始める。午後は山を廻って薬草を集め、刻んで団子にしたそれを食べる。後は何やら訳の分からぬ踊りのようなものを踊り、また座禅を行う。
 夜になると小屋の前に作った祭壇の前に座り、松明の光の下で何かの儀式を始める。両方の翼を器用に動かして小さな杯を持つと、その中に水を入れ星空に向けて掲げる。それからそれを飲み干す。それを何度も繰り返すのだ。よくよく見て、それは杯の水の面に映った星を飲んでいるのだと分かった。
 何とこの大鶏、北斗七星天授法をやっているぞと藤太は驚いた。実は古縁流の修行の中にも似たようなものがある。杯に映る月や星座をそれらの分身と見立て、これを飲むことで日月星華を自分の体内に取り込むというものだ。

 いったい何をやっているのだこいつは。藤太は呆れた。まさか仙人にでも成るつもりか。いや、それとも十二王とは元々がこのような存在なのだろうか。
 じきに藤太は酉の王を観察するのにも飽きた。神通力の片鱗を示すような行動は一切無かったが、言わば業を煮やしたのだ。
 戦国大太刀の手入れをし、手裏剣を磨き終えると、酉の王との決戦へと踏み出した。



 その日も酉の王は日課の座禅をしていた。その前に藤太が立ちはだかる。完全なる奇襲であった。
 右手に戦国大太刀、左手に手裏剣を持ち、両腕を大きく広げて藤太は名乗りを挙げた。
「我こそは古縁流第八代伝承者山ノ内藤太。古の縁により、酉の王と堂々の勝負に参った。いざや尋常に勝負せよ」
 だが、藤太のこの名乗りにも酉の王は微動だにしない。
 藤太はそっと刀の先で大鶏を突いた。その眼が半眼から普通に開くのを待ち、もう一度名乗りを挙げた。
「我こそは古縁流第八代伝承者山ノ内藤太。古の縁により、酉の王と堂々の勝負に参った。いざや尋常に勝負せよ」
 大鶏の眼がかっと開かれ、立ち上がった。
「いにしえ・・えにし?」
 人語を発した。ここまでは藤太は予想していたので今更驚きはしない。
「オラを殺しに来た?」
「そうだ。いざ尋常に勝負せよ」
 酉の王は押し黙った。人間ほどもある大鶏の目玉が左右にきょろきょろと落ち着きなく動く。藤太が苛々しながら待っていると酉の王はようやく後を続けた。
「よ、よくぞ来られた。古縁の剣士よ」
 酉の王は翼を広げた。白い羽に金色の斑が入っている。羽が広がるとその体はさらに倍の大きさに見えた。
「我が名は明鳳、酉の王なり。我が神通力は『無敵』。我が前に立つ者は瞬きする間も無く死ぬ」
「なんと!」
 途轍もない神通力だ。藤太の背中を冷たいものが走った。
 酉の王は勝ち誇ったように続けた。
「我が勝ちは決まっている。そなたの負けだ。だが我は慈愛の王として通っておる。今ならそなたが逃げることを許そう」
 そこまで言って酉の王は押し黙った。
 藤太は一瞬で覚悟した。侍なのである。元よりこの道に入ったときに戦いで死ぬことになることは分かっていた。今更惨めに逃げまどっても仕方がない。なによりそれでは置いて来た弟子たちに顔向けができないし、巳の王と戦って死んだ師匠にいったいどんな顔をして詫びたらよい?
 死ぬならせめて一太刀でも加えて見せる。藤太は身構えた。
「ああ。逃げてもよいのだぞ?」酉の王は再び言った。「今のうちに逃げることをお勧めする」
「ご配慮には感謝する。だがそれがしは侍なり。侍が敵に背を向けて何とする。それがしは命よりも侍としての名誉を惜しむ。さあ、その神通力、思う存分奮われるがよい」
 大太刀を発動の姿勢に持っていった。頭上に上げた大太刀を頭の後ろの位置にまで沈める。足の筋肉に気を集中し、爆発的な力を引き出す。
「弐の斬撃、滝流し」
 高く高く跳躍し、相手の頭上から振り下ろす。ただそれだけの技だが、全身の重みが完全に刀に乗るので、容易く受けることもできはしない。そしてその技の間合いは驚くほど広い。古縁流で鍛えられた筋肉だけにできる究極の力技だ。
 だが、藤太より先に大鶏が動いた。
 両方の羽を揃えるとがばっと地に伏し、恐ろしい勢いで土下座をしたのだ。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 おねげえだ。殺さないでくれ~」
「!」藤太は踏鞴を踏んだ。
「オラ、今までに誰も殺していねえだ。人間には害を及ぼしていねえだ。おねげえだ。見逃してくんろ」
「いや、見逃すも何も。お前、十二王だろ」
 大鶏は正座した。人間ほどもある鶏の正座は物凄く異様な光景だった。
「へえ。十二王の中の一匹、酉の王でごぜえますだ」
「では戦え」
「オラ、戦えねえですだ。戦う力なんか持っておりませんだ」
 酉の王が嫌々と首を横に振った。
「神通力があるだろ」
「ありゃ、嘘ですだ。オラ、神通力なんか持っていませんだ」
 藤太は訳が分からなくなった。
「でもお前、十二王だろ?」
「それは確かに」
「なのに神通力がない?」
「オラ、十二王の中でも一番新参者ですじゃ。だからまだ神通力を持っていませんだ。こんな山奥に籠って百年も修行しているのも神通力が欲しいからですじゃ」
 ああ、だから人間の修行の真似事をしていたのか。ようやく藤太は合点がいった。というか百年前から修行とは十二王の寿命はいったいどれだけ長いのか。
「だから、オラ、無害ですだ。見逃してくんろ。決して悪さはしないですから」
「見逃せと言われてもなあ」藤太は自分の頭を掻きむしった。「我らには因果というものがある」
「因果って神様の頭を殴ったあれですかい?」
「ああ、それだ。それ以来、我ら伝承者は十二王と戦い続けておる」
「オラ、確かにあの場にいましただ。でも神様って言ったってただの木彫りの像ですだ。それを殴ったからと言って誰も困りませんだ」
「なに?」
「だから神様の像ですだ。オラたちゃその木の像を拝みに集まったのですじゃ。そしたら変な人がやってきて像を殴って割ってしまったですじゃ。
 オラそんなこと気にしないですじゃ。そりゃ馬の野郎はやたら怒っていましたが、オレは別に知らないですじゃ」
「初耳だな。でもそれを恨みに思ったんだろう?」
「確かにオラあそこにいたけんども、好きでいたんじゃない。虎の野郎や牛の野郎に引きずられてあそこに連れていかれましたじゃ。行かないと食い殺すと脅されて仕方なく。オラ、争いごとは苦手なのですじゃ」
「参った」
 藤太は心底困った。相手が戦いに応じるならまだしも、これをどうすればよいというのか。藤太はそれほど気が荒いわけでもないし、乱暴でもないのだ。必要ならば躊躇うことなく力を奮うが、別にそれが好きというわけではない。
「せめて、せめて、後少しだけ待ってくだせえ」
「何を待つというのだ」
 藤太はもうすっかりと戦う気が失せている。
 酉の王は立ち上がった。羽を広げて脇を見せる。
「ここに金色になっていない茶色の羽が見えますだか?」
 言われて初めて藤太の眼に金色の斑羽の中に少しだけ赤茶色が混ざっているのが見えた。
「この最後の羽が抜けて金色の羽だけになったら、オラの神通力が完成しますのじゃ」
 その瞬間、藤太の腕が動いた。
 大鶏が反射的に宙に飛び上がり、掘っ立て小屋の上に乗った。そのまま再び跳びあがると羽を広げて滑空した。
「見逃してくんろ。追わねえでくんろ。オラ、今死ぬわけにはいかない」
 そう叫びながら隣の山の頂上に跳び、そこでまた宙に跳び上がった。あっと言う間にその姿は小さくなり見えなくなる。
「しまった。逃がした」
 藤太は地団太を踏んだ。


3)

 一度街に下りた。
 地元の地頭が開いている賭場を荒らして金を作ると、それで鍛冶場を一つ借り切った。
 しばらくそこに籠って古縁流の古伝書に記述されている手裏剣を打ちあげた。
 手裏剣の名前は『飛び蛇』。
 古縁流の第二代継承者は剣の技よりも様々な補助具を作るのに長けた忍者鍛冶職人だった。大人の体重を軽く支える糸の元となる山蛾の品種改良から始め、色々な忍具、そして武器の制作まで手広く行い、それらすべてを古伝書に残している。
 この飛び蛇もその一つである。忍者が使う苦無と呼ばれる鍔無し両刃短剣を幅広くして左右に羽のように薄い刃を追加したもので、十字薄葉短剣とでも呼ぶべきものである。一度投げられると、そのまま風に乗り、より遠くへ素早く飛ぶようにできている。元々が十二王の中に酉が混ざっていることからの発想で、空を飛翔する相手に向けての攻撃手段として特に工夫されたものであった。ご丁寧にも刃につけてある溝には毒を塗ることができるようになっている。
 ただしその代償として飛び蛇は重く嵩張り、行動の邪魔にならないように携行できるのはせいぜいが三本。そして命中精度はそれほど高くないので普通の戦いには絶対的に向かない。その扱い難さゆえに古伝書の中にのみ存在するものであった。
 いまそれが藤太の手により再びこの世に生まれ出ようとしている。

 酉の王は居場所を変えるかも知れない。だが、住み慣れた場所をそう簡単に離れるだろうか。藤太はそう考えていた。さすがに元の住居に続けて棲みはしないだろうが、生活圏はそのままにしておくのではないか。藤太が一度退けば、敵はいなくなったと思って戻って来る可能性は高い。
 なにより酉の王は神通力を得るまで後少しと言っていた。これから新しい住処を見つけ修行をやり直すぐらいなら、何とか藤太の眼を盗んでやり過ごすのが一番簡単だ。
 楽観的すぎるかな。自分でもそう思った。だが藤太の勘は当たるのだ。



 再びかの地へと舞い戻った。やはり隠身の法をかけたまま、じりじりと目的の場所へと近づく。
 例の掘っ立て小屋が見えた。見た目でも前よりもさらに寂れて見える。たしかに無人、いや無鶏だ。
 続いて滝場へと廻る。何もいない。滝場の周りは舞い上がる飛沫でそもそも痕跡が残るということはない。だから使っているのかどうかは分からない。
 もう一つ、心当たりがあった。仙薬を作るための薬草の一つは非常に手に入りにくいものなのだ。最初の訪問のときに見つけておいた希少な薬草の群生地に向かってみる。慎重に薬草を調べて、つい最近何本か手折られた跡があるのが分かった。
 当たりだ。確かに奴はまだここにいる。
 調息して気配を消し石に化け、待った。酉の王は鳥目なのだろうか。だとすれば夜まで待たされはすまい。



 がさりと音がして藤太は目覚めた。と言っても寝ていたわけではない。一種の瞑想状態だ。瞼を静かに開くと、石に似せた布の隙間から覗いた。
 身を屈めて薬草を集めている大鶏の姿が見えた。
 藤太はぴくりとも身動きしないままに筋肉だけを順に動かし、血を巡らせた。それから頃合いよしと見て酉の王の前に飛び出した。岩に化けるために着物を使っていたので、今はふんどし一枚の裸だがそれは仕方がない。腰に皮の帯でいくつもの道具が結びつけてあるのがものすごく滑稽に見える。
 酉の王の眼が驚愕に大きく見開かれる。
「動くな。これを見よ」
 藤太は左手に持った忍具の飛び蛇を見せた。それは恐ろしく凶悪な外見で、鋭く薄く伸びた刃の両側に翼のように張り出したこれも薄い刃が目立つ。一目見ただけで相手を絶対に殺すという意思が分かる凶器であった。
「これは飛び蛇という手裏剣でな、空を飛ぶものを殺すように作られた手裏剣だ。おまけに今はたっぷりと毒を塗ってある。どんな生き物でもたちどころに殺す猛毒をだ。飛んで逃げるようならこれを躊躇わずに打つ」
「許してくだせえ。殺さねえでくだせえ」
 酉の王はまたもや土下座した。その勢いで酉の王の腰の袋に貯めていた薬草が辺りに飛び散る。
「おねげえです。見逃してくだせえ。
 おねげえです。許してくだせえ。
 おねげえです。助けてくだせえ。
 おねげえです。殺さねえでくだせえ」
 酉の王は泣きわめいた。
「ええい。またそれか。正々堂々と戦え」と藤太。相当苛ついている。
「オラ、何もしてねえだよ。どうしてそんなにオラを殺したいんだ」
「だから因果だと言うておる」
「そんな因果、オラは知らねえだ。見逃してくんろ」
「駄目だ。ここで見逃せばお前は神通力を得てそれがしを殺しに来るだろう」
「そんなことしないだよ」
「それが真かどうか、それがしにどうして分かる?
 それにお前の神通力『無敵』は文字通りに無敵なのだろう。お前が神通力を得てしまえば、それがしに勝ち目が無くなるではないか」
「違いますだ。オラの神通力はそんなものじゃないですだ。あれはただの嘘ですだ」
「ならばお前の本当の神通力は何だ」
 酉の王の眼が大きく開いた。
「あの、その」言いよどんだ。
「言え」藤太は声色で脅した。
「飛翔」
「飛翔? 飛翔とは何だ」
「空を飛ぶ力ですじゃ」
「空を飛ぶってこないだ飛んで逃げたじゃないか」藤太は混乱した。
「あれは違いますじゃ。あれは跳んだのであって、飛んだのではありませんじゃ」
「だから飛んだのであろうが」
「つまり兎のように跳ねましたのじゃ。羽があるから遠くまで跳べますが、結局最後は地面に落ちるわけで飛ぶのとは違いますのじゃ」
「わからん」
「修行によって得る神通力はある程度は選べますのじゃ。オラが欲しいのは空を飛ぶ力、つまりは『飛翔』ですじゃ」
「なるほど分かったぞ。空を飛んでそれがしから逃げるつもりだな」
「違いますのじゃ~」
 酉の王はおいおいと泣き始めた。その眼から大粒の涙がぽろぽろと落ちる。
「オラは空を飛びたいだけのですじゃ」
「分からん。鳥が空を飛ぶなど当たり前だろう」
 それを聞いてわあっと酉の王が地面に突っ伏した。体を震わせての号泣など藤太は初めて見た。雨でもないのに地面がたちまちにして濡れる。
「当たり前。鳥なら当たり前。あんなに小さな雀も鳩もみいんな空を飛びますじゃ。でもオラたち鶏だけは空を飛べませぬのじゃ」
 酉の王は顔を上げた。真っ赤に腫らした眼を羽でこする。
「お前さまに分かりますか。飛べない鳥の苦しみが。
 夜明けを告げる鳥よと煽てられはするものの、陰ではあれは鳥の癖に空を飛べぬと笑われる、その辛さが。飛べないから狐に狙われ、飛べないから人間に飼われて卵を毎日取られ、飛べないから歳を取ると殺されて食われる。
 空さえ飛べれば、空さえ飛べれば、こんな目には合わぬものをと。それだけ考えて毎日を過ごすこの苦しさが」
 まだ泣きながら、酉の王は正座した。
「だから、オラ、この神通力が何としても欲しいのですじゃ。オラが空を飛べば、飛べないことに苦しむ同族たちが救われますのじゃ。我ら鶏でも頑張れば空を飛べるのだと世の中に示すことができますのじゃ」
 何だか藤太の体から力が抜けた。妖魔の類が人間と同じように悩みを持つなどとは考えたこともなかった。自分がわずかながらもこの酉の王に同情を覚えていることに藤太は驚いた。
「だがお前は十二王だ」
「見逃しておくんなまし。見逃しておくんなまし。後少しで空を飛べるようになる。そしたら二度と地上には帰っては来ませぬ」
「ううむ」藤太は考え込んだ。
 酉の王はそんな藤太の顔を期待を込めて見つめていた。
「よし、決めた」藤太は手を打った。
「見逃してくれるんで?」
「いや。やはり殺そう」藤太は大太刀を振り上げた。その切っ先に迷いは一切無い。
「助けてくんろ~」
 酉の王は跳びあがった。そこに藤太が突進する。酉の王は大きく息を吸い込むと、叫んだ。
「忍法鬨の声。こけ~~~!」
 恐ろしい大声だった。周囲の木々がびりびりと震え、木の葉が振り落とされてくる。鼓膜が破れそうになり、藤太の刃の軌道がぶれた。その隙を突いて酉の王が走って逃げる。
「おのれ。面妖な技を」藤太が追いすがる。
 酉の王は大きく羽を開いて叫んだ。
「忍法羽吹雪」
 藤太の視界が無数の鳥の羽で埋まった。
「馬鹿な!」
 藤太が大太刀を滅多矢鱈に振り回す。大太刀に追われて羽が舞い散った後には酉の王は消えていた。
「ええい。お前は忍者か」
 一言文句を垂れると、藤太は耳を澄ませた。風の音。虫が歩くかすかな音。遠くに川のせせらぎ。いずれも酉の王らしき音は聞こえない。
「しまった。逃がしたか」
 藤太は地団駄を踏んだ。
 剣術は自分の勝ちだが、まさか酉の王がこれほどまでに忍術を使えるとは。これなら神通力など要らないだろうが。まあ忍術では空は飛べぬからな。藤太はそう考えた。
 念のため周囲の藪を掻きまわし辺りを見回したが、何もいない。遠くには行っていないはずだが、こうもうまく隠れられるとどうしようもない。
 さて、これは困った。こうなってはもはや酉の王はここには戻っては来ないだろう。
 今ここでお山に火を放ち炙り出すか。いや、駄目だ。ここは熊野牛王の大霊山。そのようなことをしようものなら、あの修験者のような存在が黙ってはいない。
 手詰まりだ。
 藤太はそこにあった岩に持たれかかった。
 生暖かくて、ふわふわしている。それは岩ではなかった。
 なんとこいつ、忍法岩化けまで使うのか。
 藤太は、刀を寝かせて構えた。
「弐の突き、水面」
 素早く大太刀を突き込んだ。本来は肋骨の間を横に寝かせた刀で突き抜き心臓を打ち抜く技だが、酉の王は岩に似せた布の向こうなのでただの強烈な突きだ。
 戦国大太刀は刃だけで四尺五寸の長さを持つ。その根元までが見事に埋まった。
 酉の王の体に。
 絶叫。悲鳴。人のものとも鳥のものともつかぬ叫びが上がった。
「殺さないでくれ~」
 被っていた岩模様の布を振り払うと、大太刀を体に刺したまま酉の王が跳び上がった。その拍子に藤太の手から大太刀がもぎ取られる。
 酉の王、大鶏は訳も分からずにそこら中を全力で走り回った。大太刀が刺さったままだ。周囲に血の雨が降り注ぐ。その拍子に、一枚の茶色い羽が抜け落ちて宙を舞う。

 時間が止まった。

 藤太が酉の王を見つめた。酉の王はたった今まで茶色の羽が残っていた自分の脇の部分を見つめている。茶色の羽はゆっくりと宙で揺れ、そして地面の上にそっと舞い降りた。
 酉の王の体が金色に輝いた。まるで世界中の光が集まったかのようにその体が眩しく光る。いや、体が光っているのではない。周囲から集まって来た光が体に吸い込まれているのだ。
「オラ、今や神通力を発動す。見よ。神通力『飛翔』」
 高らかに宣言すると酉の王は飛んだ。羽を開き、風を捉え、大空へと舞い上がった。
「自由だ!」鳥の王は叫んだ。「オラは自由だ。見ているか我が同胞たち。大空はオラたちのものだ」
 そのまま大きく羽ばたく。見る見る内にその姿が遠くなる。
 藤太は飛び蛇を構えた。その刃の溝には猛毒がたっぷりと塗りつけてある。いかに神通力で永遠に飛べるとしても、いまはまだ飛び蛇の射程内だ。
 藤太は飛び蛇を投げようとして躊躇った。
 また投げようとしてまた躊躇った。
 このままでは酉の王が射程外に出てしまう。最後に飛び蛇を握った左手を大きく振りかぶると、そこでしばらく固まった。
 息を大きく吸い、吐いた。
 そして・・。
 藤太は左手をだらりと垂らした。足下の地面に跳び蛇が硬い音を立てて落ちる。

「自由か」藤太はそっと呟いた。
 それから大空を舞う酉の王を見て、両手を広げると大きく振ってみせた。
「行け。行っちまえ。どこまでも、どこまでも、飛んで行け!」
 後はただ、青空の中にぐんぐんと小さくなる酉の王を目を細めて見送る。
 酉の王の体には大太刀が貫通したままだ。羽を羽ばたくたびに大太刀が穿った傷口が開き、血が零れ落ちる。深い深い傷だ。地上に降りて傷の止血をせねば早晩死ぬことになるだろう。
 だがそれでも、酉の王は決して再び地上には降りないだろうとの確信が藤太にはあった。
 もはや勝負はついたのだ。
 後はただ、酉の王がここ数百年間切に願った望みが果たされるのをこうして見届けることだけが、古縁流第八代伝承者山ノ内藤太の義務であった。