タヌキの件について進展があったのでここに報告する。
入院したときに猫の世話をしてくれた人の所にタヌキが移り棲んで一年以上が経過した。
その間にタヌキはさまざまなものを彼女に見せた。それは主に花だ。
布団で寝ている彼女の前に差し出される一輪の花。やがてそれは花束となり、最後は百日紅らしき満開の花が咲く木に進化して周囲に花吹雪を散らすようになった。
すべてタヌキが作り出した幻覚だ。
先日、寝る準備をしていた彼女はあるものを見て驚愕した。
枕の上に、巨大な黒い何かがいた。それは最初はゴキブリに見えたが、すぐに違うと分かった。
彼女の表現によると「ゴキブリとムカデを足して2で割ったような」である。黒い頭にはゴキブリのような触覚が生えていたが、その細長い胴体を見ればまったく違うのが分かる。
彼女は瞬間的にそれを手で叩いた。捕まえて捨てようとしたのである。
彼女は虫に触るのが平気で、ゴキブリなどを見かけるとネコがそれに触る前にさっと捕まえて捨ててしまうのである。もちろん触るのが嫌なのは間違いないのだが、それよりもネコがそれを食べてお腹を壊す方が困るという判断である。
この点、ゴキブリに触るか全世界を滅ぼす核戦争のボタンを押すかと尋ねられたら、躊躇わずにボタンを押す方を選ぶ私とは大違いである。
さて、彼女がソレを叩いた瞬間、ソレは消えた。枕も布団も引っ繰り返したがどこにもいない。その大きさから考えて見つからないのは変だ。
ここまできて初めてそれが幻覚だと気づいた。
「今まで綺麗なものばかり見せていたのに、突然あんな気持ち悪くて汚いものを見せるなんてどうしたのかしら」
彼女は話を締めくくった。
ああ、分かった。
「それはね。幻覚ではなく、それがタヌキの本体なんだよ」
隠形術。何かを見せる幻覚ではなく「何も見ていない」と見せる幻覚なのだ。
おそらくその虫らしき何かがタヌキの本体で、ちょっとした拍子に術が破れたのだろう。
虫化け。身の回りの実話怪談「啓蟄」で上げた話の中にも出て来たあれだ。
虫化けとは言っても、その本体は正確に言うと虫ではない。虫に似た何か、なのだ。
「啓蟄」に出ていた虫はゴキブリと表現していたがゴキブリではない。日本のゴキブリはジージーとは鳴かないからだ。ついでに言うなら人影の幻影なども作り出さない。
今回の虫も虫ではない。虫に似た何かなのだ。恐らくその細長い胴体の中には高度な脳活動を行うための神経組織が詰まっている。
人類の生存活動に完全に寄生した高度に知的な生命形態。それが虫化けだ。
我々が住むこの世界は物理空間とは直交した方向に陽態から始まり陰態まで幾つもの深さが存在する。これらは本来は陰態に棲む生物で色々と歪んだ生物学に従って構成されている。陰態という場所の特徴は距離の概念がこちらとは違うからだ。だから知性の形成に必要とする脳の容量の問題も楽々とパスしてしまう。
この人間の見当識に作用する能力を持つ存在である『タヌキ』は虫に良く似た何かが本体ということになる。それは常に隠形術をかけて人間の周りに棲息している。
「嫌だな。またあの気持ち悪い虫を見ることになるのかな」
心配そうに彼女が言う。
「大丈夫。タヌキはもう二度と現れないと思うよ」私はそう答えた。
隠形術が破られた。一度破られた術はまた破られる可能性がある。今度見つかったら次は殺されるかも知れない。おまけにこの人は躊躇なく掌を叩きつけて来る相手なのだ。
そう考えれば、もうタヌキは出られない。出られるわけがない。
虫に似た存在だって、命は惜しい。
私の推測通りに、この日を境にもうタヌキは出ていないそうである。